ノモンハンまでのまとめ
昭和十四(1939)年十二月、ノモンハン事件に関する報告がまとめられ、装備品に関する将来の検討という事で、会議に呼ばれることとなった。
タブレットで下調べをしてから望んだが、ソ連の宣伝と実像はかなりかけ離れている様だった。
ソ連の宣伝によると日本の大敗北という事になっているが、実情は引き分けに近い。しかも、下調べ時と比べて日本側の機甲兵力が大幅に強化されているのには正直驚いた。
まず、ノモンハン以前の日本軍についてみていく必要があるだろう。
俺が強引に介入した九二式重装甲車は火力が増した。九四式は乗員の精神衛生以外向上していないが、九五式軽戦車も九二式からの玉突きで対戦車能力が向上している。
この間の工業基盤の発展は目を見張るものがあった。KAIZENをはじめとして様々な生産基盤の近代化、モノ作りそのものの形が大きく変わってしまったと言って良い。
そして、昭和十二(1937)年七月に始まった支那事変。当初は北平(北京)周辺の小競り合いでしかなかったが、八月、上海へ国府軍が侵攻するに至り全面戦争に突入した。
この経緯にタブレットの資料との違いはないが、そこでの交戦では大きな違いが存在している。南京を目指す進攻上での戦闘では国府軍が多数の戦車を繰り出してきた。それも、対戦車戦闘が可能で時速45kmを誇る快速戦車L-60だった。
これによって日本軍歩兵は大打撃を受ける。そもそも、6.5ミリではドイツ製7.9ミリの前に劣勢であったところに戦車である。どうしようもなかった。
北支での作戦においても共産軍が戦車を有していたため八九式が撃破されている。こちらは時速25km程度のT26であったため、仕留めるのは容易だった。
戦車などないと甘く見ていた日本軍は一時的に敗北、後退を余儀なくされて、九五式によって編成された戦車部隊を投入して何とか形勢を立て直すに至る。
国府軍部隊は戦車の運用は稚拙であったため、九五式の集団戦によって各個撃破が可能だった。ただ、無傷という訳にはいかなかった。
この結果、九七式の早期量産化が決定されている。そして、幸運にもそれを支える工業基盤が多少なりとも出来上がっていたのはうれしい誤算だっただろう。
が、事態はさらに悪化する。
国府軍の運用の稚拙さに助けられてこそいるが、L-60戦車は優秀なスウェーデン鋼を装甲に使用しているため、たかが13ミリの装甲とは言っても、九五式の主砲では貫通が難しい。撃破するには自らも撃破される距離まで近づく必要があり、まさに後の西部戦線でドイツ戦車1両を撃破するためにシャーマンが束でかかって囮を用意しながら撃破していったような惨劇が巻き起こっていた。
ちなみに、鈍足のT26なら何の問題もなかった。が、その45ミリ砲は脅威であり、47ミリ砲の早期実用化を促すこととなる。
昭和十三(1938)年に入ると国府軍の機甲戦力は払しょくしたのか、或いは奥地へと逃げだしたのか、散発的になるが、時たま現れるL-60はやはり厄介なシロモノだった。
日本軍にとって、九五式しかないが、それがもはや時代遅れでさらなる強力な戦車が無ければ今後の戦争に影がさすと現場では共通の認識が広がっていた。
九七式軽戦車が配備され始めたのは四月以降の事だったが、これでようやくまともな戦力となった。が、それでもT26と真正面からやり合うには不安が残った。
かねてからタングステン製徹甲弾を意見具申してはいたのだが、タングステン合金の安定生産にすら事欠く状況では未だ手が付けられていなかったが、破甲榴弾ではスウェーデン鋼を破れないという現実を前に、ようやくその研究が加速、まず手始めにと無垢材による徹甲弾の制作から始めることとなり、47ミリ砲が完成した九月以降、47ミリ砲と共に量産が開始されることとなった。残念ながら37ミリ砲が後回しとなり、まずは九七式の47ミリ砲への転換が優先されることとなった。47ミリ砲を装備した事で九七式は13.9トンまで重量が増加したが、中戦車ではない。
昭和十四(1939)年に入ると、47ミリ砲を現地へと送り、既存の九七式を47ミリ砲へ換装する事も始まっていく、ノモンハンに投入された九七式16両のうち、12両までは既に47ミリ化されている状態だった。残り4両は歩兵支援用に57ミリ砲が装備された車両だったので論外。
ノモンハン事件の様相を変えてしまったのは、この機甲部隊の違いだった。
日本軍は支那事変における八九式の無力さと九五式の脆弱性に衝撃を受け、九七式の大増産に舵を切っていた。昭和十四(1939)年には九五式のラインすら閉鎖して九七式の集中生産を始めるほどだった。
現場経験者のそうした悲鳴による改善は大きかったが、その一方で、未だ、セクショナリズムも隠然とそこに根付いていたため、75ミリ砲搭載という問題については、ああいう事態となってしまっていた訳だ。
会議の席上問題として挙げられたのが、歩甲一体の進軍が出来なかったことだった。そして、夜襲という日本軍が昔から取ってきた戦法に戦車が付いていけなかった事も挙げられた。
歩甲一体は既に解決の道が見えていた。三菱が九五式戦車が生産停止となった事で空いた設備を使って、他社製造の九四式軽装甲車の足回りを流用したハーフトラックを作り上げていた。
九四式は牽引車だから本来、製造中止にならないはずだが、そこはお役所仕事、巻き添えを食っていた。
そこで、三菱が考えていたハーフトラックの足回りとして、九四式に目を付けたらしい。双方にとって、しかも、牽引車が無くなる砲兵にとってもありがたい話で、どこからの反対もなく、人知れず軍に採用されることとなっていたのだから驚く話だった。
制式化が採用よりも遅れて九九式半軌装貨車となっている。しかも、九四式の足回りと三菱製の新型ディーゼルの組み合わせで作られ、エンジンが運転席の下に来るという、時代を先取りしたトラックになっていた。
たまたま通りがかってどうしたものかと悩んでいた設計陣に後の73式トラックのキャビンを提示したのは記憶に新しい。
キャビンが前輪の上にあるトラックなんて、この時代、他にねぇよな、多分・・・




