今すぐがいい
アデラは本来ならばアデラ・リコットと名乗るはずだった。
ところが実際アデラの父は入り婿で、再婚するのであればリコットと名乗る事は赦されない、と女伯爵であるナタリアに言われ、アデラは結局アデラのままだった。
家名のないアデラ。平民のアデラである。
実は貴族でこれからはお嬢様として生きていくのだと信じて疑っていなかったアデラにとって、それは天から地に落ちる程の衝撃で。
アデラの中で思い描いていた理想は決して叶いはしないのだと知って、それはもう悔しかったのだ。
生まれてから今までずっと平民として生きてきて、この先も一生平民のまま、というのであったならそこまで悔しいとは思わなかったかもしれない。けれども見せられた夢は甘くキラキラと輝いていたから。
だから簡単に諦めきれなかったのである。
本当だったらアデラの母親と正式に再婚したらしい父はリコット家にいられなくなってもおかしくはない状態で。
僅かなお金と共に追い出されたら行く場所などなくなってしまうアデラたちは、結局リコット邸と比べれば随分とグレードが落ちるとはいえ別邸での生活を選んだ。
今までのような贅沢はできなくなっても、それでも路頭に迷う事を思えばマシだ。
思っていたものよりはしょぼいけれど、それでも前の生活よりマシ、と考えて少しでも自分を納得させようと思っていたのだ。
けれども身近で上を見ればそうやって納得させようにも難しくなっていた。
自分だって同じ父親なのに、母親が違うだけでどうしてこうも生活に差が出るのか。
わかってはいるけれど、それでも心の中ですんなりと納得なんてできなかった。
我慢をしていたと言っても、結局我慢しきれずにアデラはナタリアに直談判を試みた。
アデラは自分の美貌に自信があった。
今は愛らしい、という表現であったとしても父も母も美形であるのだ。その両親の子であるアデラだっていずれ年を重ねれば可愛らしいより美しいという言葉がぴったりになる自信はある。
だからこそ、貴族たちが催すパーティーに参加すれば、王子様にだって見初められるかもしれないのだ。
そしたらこんなところで燻ぶらず、自分を大切にしてくれる旦那様や、そんな旦那様の指示で自分に傅いてくれる使用人たちにちやほやされてお姫様みたいな暮らしができるかもしれない。
そんな夢を期待しながら、ナタリアにパーティーに参加したい、と頼み込んだのである。
結果は惨敗。
そもそも父親に貴族の血が流れていても現時点父には何の権限もない。
既にナタリアが家督を継いでいる時点で、引退した前女伯爵の元夫、という肩書しか残っていないのだ。
父が母と再婚をせず、母を愛人のままにしていたのであればまだギリギリ貴族扱いをされていたようなのだが、父はナタリアの母が死んだ後、早々に一刻も早く結ばれたい、とアデラの母と再婚をしたので。
貴族と平民は結婚できない、というのがこの国の法である。
貴族以上に裕福な商家に嫁いだ貴族の娘も平民となる。
ただ、その場合周囲の人脈を駆使したり、それなりの功績を出せば爵位を得る事が可能ではある――とナタリアが教えてくれた。
だったら、母が貴族になれれば自分も自動的にお嬢様になれる。
そう考えたのも束の間、ナタリアにそっと首を横に振られた。
ナタリアの母と結婚していた時だってロクな結果も出さなかった父だ。社交に力を入れる事もなく愛人と自堕落に過ごしてきただけの男が社交界に返り咲けるかとなれば――絶望的だろう。
例えば商家に嫁いだ令嬢が再び貴族として返り咲くにあたり、かつての友人たちからの口添えなどがあればそれは容易だ。それだけの信頼を得ている相手が貴族でなくなった事は損失であると考えられるし、故に低位身分ではあれど爵位を得る事ができる。
高位身分の貴族の口添えがあれば話はもっと早い。
だがケニーには。
かつての友人の伝手を頼ろうにも、愛人宅に入り浸りかつての友人たちとも疎遠。
その状態で今更平民と再婚したから貴族に戻る手伝いをしてくれ、なんて言われても果たして誰が協力するのかという話だ。
女性の場合は周囲の口添えが大きいが、男性の場合は自らの力でのし上がれ、と言われる事も多い。
ケニーが実家から他の爵位を賜っている、などであればまだしも、ケニーの生家は子爵家で、爵位を余分に持っているかというとそうではない。
せめてナタリアの母が生きている間、少しでも表向き仲睦まじいのだと周囲に見せていればよかったが、それすらしていないのでむしろ社交界ではケニーの存在など新興男爵家より知名度が低い。
ケニー? 誰それ。あぁ、そういや以前子爵家にいた次男坊か……え、まだ生きてるの?
一切の装飾なしに彼の評価を問えば、概ねこんな返答が出るに違いないとナタリアは確信しているし、それをずばっとアデラにも伝えればアデラは呆然としていた。
いつも一緒にいてくれた優しい優しいお父様は、しかし傍から見ればロクに仕事もしないで家に引きこもっているロクデナシである。愛人とその娘を連れて遊び歩いているだけで、他に何か生産性のある行為をしたかとなればそれもない。
閉じた世界で過ごしていた結果、何かあっても彼らに手を差し伸べようと考える者はほとんどいなくなっていた。
言ってしまえばただそれだけ。
その現実を突きつけられて、アデラが願うようなパーティーに参加するなど夢のまた夢、となれば。
駄目だと言われれば余計に参加したくなってしまって駄々までこねたけれど。
ナタリアにぴしゃりと突っぱねられた挙句冷ややかな目を向けられて、アデラは余計にそれが面白くなくて思わずむくれていた。
こうやっていかにも不機嫌です! という顔をしていたら、今までは男の子たちがアデラの機嫌を取ってくれたし、父だってアデラにそんな顔は似合わないよという事を聞いてくれたのだけれど。
それが通用しない相手にやったところで逆効果でしかない。
「そうしているととても不細工でしてよ」
鼻で嗤うように言われて、アデラは余計にむくれた。
「あたしブスじゃないもん!」
「えぇ、平民の中ならそうなんでしょうね。ですが社交界では最底辺です。パーティーに参加したい、というのはつまり珍獣として見世物になりたいという事でしょうか? それでしたら可能ですけれど。わざわざ笑い物になりたいなんて奇特ね」
「そんなんじゃないわ! あたしは! 素敵な方に見初められて愛されて贅沢な暮らしがしたいの!」
「まだ若いのに欲望全開ですわね……平民だけあって逞しさだけは凄まじい……いえ、他の平民に失礼だったわ」
ナタリアの脳内で他のマトモな平民たちが浮かんだのか、早々に言葉を訂正していたがそれもまたアデラの癪に障った。
「ともあれ、お茶会にしろ夜会にしろ招待状ももらえない貴方が参加するなど無理ですわ。せめてわたくしが参加する催しに共に連れていってもいい、と思えるだけの礼儀や教養があるというのならまだしも」
だから教師をつけると言ったのにそれすら面倒がっているのだ。
であればナタリアがコレを連れていこうなど思うはずもない。
少しでも貴族の血を引いているのだから、そこで努力して上を目指すのであればそれなりに使い道もあるだろうに……と思ったものの、コレでは話にならない。
というナタリアの考えがアデラに理解できるはずもなく。
単純に意地悪されているとしか思っていないアデラはしばらくはごねてみたものの、ナタリアが一切絆される事はないとわかってからようやく。
ようやくしぶしぶといった形で教師に教わる事を受け入れたのである。
教師を雇うのだってそう簡単な話ではないのだが、ただの平民が望んでもこうはならない、という幸運を果たしてアデラは理解しているのか。
まぁ絶対理解できていませんわね、とナタリアは内心で納得し、一先ず教師の手配をしたのである。
――アデラの心が折れたのはそれからすぐの事だ。
一言でいえばあまりの厳しさに早々にやる気をなくした。
決して教師たちはアデラを虐めぬいてやろうと思ったわけではない。きちんとアデラを一流の淑女として育て上げてほしいというナタリアの意向を汲んでその通りにしただけだ。
彼女が社交に参加したいというから、あまり長い年月をかけるのはどうかと思うの、という一言でとんでもなくスパルタになってしまっただけ。
だがその『だけ』がアデラにとってはとんでもハードモードすぎたのである。
歩く時の姿勢、お辞儀の角度、カップを持ち上げる時の一連の動きといった、今までのアデラにとってはどうでもいいとしか思えないもの一つ一つが細かく厳しくチェックされ駄目出しされ続けるのである。
その他教養を、との事だったので始まった学習にもアデラのやる気はこれっぽっちも出てこなかった。
アデラの人格を否定されたわけではない。けれども、動作の逐一を否定され続けるのだ。最終的に自分という存在全てが否定されているようにアデラは感じ始めていた。
動いても駄目出し、勉強も駄目出しとくればやる気が一切出てこない。やらなきゃダメと言われてもやっても駄目だと言われるのだ。これでやる気を出せたとしても結果まで出せるわけがない。
アデラの母もちょっとだけアデラの学習の様子をこっそり覗きにきたけれど、厳しいレッスンにそっと目を逸らし見なかったことにしたようだ。
ちなみにこの学習は当然別邸で行われている。学習のためだけに本邸に入れてやる義理などナタリアにはないので。
これがきっちりできなければ社交など夢のまた夢です、と教師に言われても「やってやるわよ!」とはなれなかった。
もういい! と叫んで部屋に引きこもって枕に八つ当たりをして。
食事時に母に泣き言を喚いて同情を買いつつ、父になんとかならないかと縋る。
けれども父は頼りにならなかった。
どうしても社交に参加したいというのならマナーは確かに大事だから……と言ってそれ以上は何をしてくれるでもなさそうだった。
ナタリアから聞かされた話を思い出す。
父は貴族ではあるけれど、しかし実際パーティーを開くような事はできないのだと。
そもそも男性の社交は女性の社交とはまた違うものだ。
父がパーティーを開いたとしてもアデラが望むようなものにはならないだろう。
辛い勉強をそれでも少しは頑張ったのだから、ちょっとくらいご褒美があったっていいじゃない! と思って両親に駄々をこねても、結局どうにかなるわけもなく。
やっぱり頑張らなきゃダメなのかしら……でもやりたくない……とどう頑張っても前向きになれないままうだうだと数日を過ごして。
そんなある日、父に言われたのだ。
アデラでも参加できるパーティーがある、と。
だからこそアデラはその言葉に飛びついた。
ドレスを着てダンスを踊るものなのだと言われて、アデラはダンスだけは頑張った。そしてどうにかダンスだけは形になってから、支給されていたお金でどうにか買った既製品のドレスに身を包んで、父に連れられてそのパーティーがある会場へ向かったのである。
参加者は事前に渡された仮面をつけて会場に入る。
所謂仮面舞踏会であった。
仮面は外さないように言われてそれは少しだけ不満であった。何故なら外見で相手の目を惹きつけるのが難しくなるからだ。
本当なら自分のためだけのドレスを作ってほしかったけれど、別邸暮らしの父にはそこまでの金が支給されているわけでもなく、またナタリアに強請ったとしても最低限の礼儀作法も身についていないうちにそんな物は必要ないと言われるのがわかりきっている。
アデラが我侭を言ったところでナタリアはアデラの機嫌を取ってくれる事は決してないので、どうにか手に入れたドレスで勝負するしかないのだ。
だがドレスだけで精いっぱいで、他の装飾品の用意は無理だった。
それでも一応母の持っているジュエリーから控えめなものを借りはしたけれど。
父と母はかつて仮面舞踏会に参加した事があったらしく、アデラよりは慣れた様子で二人でゆったりと踊っていた。アデラは物珍しさと周囲の人が全員仮面をつけているという雰囲気に圧倒されながらも、仮面のせいで少し視界が悪い事にややテンションを下げ、それでも誰か素敵は人はいないかとあちこち視線を彷徨わせていた。
結論から言うのなら、その時にダンスに誘ってくれた人はいた。
けれどもお互いその場の勢いで楽しみはしても、次につながるような事はなかった。
相手は名前を名乗らなかったし、アデラも名前を聞かれなかったから。
仮面舞踏会で堂々と名前やそれ以外の情報を漏らすような事はしてはいけない、と事前に父に言われていたからというのもある。もし次の機会にまた出会える事があるのなら、そこから徐々にお互いの事を知っていくのだとか。
アデラにとっては未知の世界なので父の言い分を素直に信じた。
それに、ナタリアに求められた淑女としての最低限と比べれば、父の言うとおりにするのはとても簡単な事だったので。
そうして何度かは両親と共に仮面舞踏会に参加していたアデラだが、段々と場の雰囲気を掴み始めた事でやがて一人でも参加するようになっていった。
そうして以前にも共に踊った相手と出会って「あらあの時の」なんて事になった相手とは、ダンスを終えた後も少しだけ話をしたりして、少しずつお互いの事を知っていった。
アデラからすればお互い少しずつ知り合っていく、という感覚だったのかもしれないが、しかし相手はそうではなかった。探っていると悟られないよう自然に話題を運び、そうしてアデラが一体どこの誰なのか、というのを聞き出していたのである。
今の今まで平民として生きてきたアデラは、腹の探り合いというものをそこまでしてはこなかった。
確かに自分の容姿に嫉妬した相手に何やら色々と聞かれた事はある。恋のお相手についてとか。
自分の好きな相手がアデラを好きだった、なんて事があったらしく、アデラが好きな相手如何では自分の恋が破れるかもしれないという牽制を兼ねていたのかもしれない。
そういった女性からのアデラに対してあまりよく思っていない空気だとかであったなら、アデラも何か探りを入れられてるわ……と察する事ができたかもしれない。
けれども仮面で相手の表情はわからず、また軽快な話題で盛り上がっている状況でアデラは自分の事を探られているなど思いもしなかったのだ。
仮面といっても顔の上半分を隠すものであって下半分は出ている。だからこそ口元の変化くらいなら察する事ができるし、アデラと話をする男性は大抵常に笑んでいる様子だったから。
アデラはいい雰囲気である、と信じて疑わなかった。
仮面舞踏会は顔を隠して参加するといっても、誰でも構わず、というようなところばかりではない。
ある程度の身分がなければ入れないだとか、そういうものも存在している。
父がアデラを連れてきたパーティーは低位身分の貴族でも入れるもので、参加も招待状がなければ無理とかそういうものでもない、気軽なものであったからアデラとその母親も参加できていたに過ぎない。
身分や派閥といったしがらみを気にせず楽しみたい、という気楽に楽しもうというものならまだしも、そういうものばかりではないという事をアデラは知らなかった。
参加の際、招待状が必要だとか、いかにも堅苦しそうな雰囲気の所は避けたけれど、そうじゃなさそうならしれっと会場に入り込んだりしたのだ。
そこでは結婚後、秘密の恋人を作りたいという――つまりは不倫のお誘いである――者たちの集いだった。
あわよくばいい感じの愛人を見繕いたい、なんて者もいるような――ダンスだけで終わるようなものでもなかった。
そこで見るからに若々しいアデラは数名の男性に声をかけられたのだけれど、しかし少し話をするうちにアデラの周囲にいた男性たちは、一人、また一人と去っていったのである。
実のところアデラの存在は既に噂として広まっていた。
アデラが参加した仮面舞踏会にだってアデラと近しいであろう年齢の令嬢はいた。
けれどもそういった令嬢は大抵ろくでもないのが大半である。
貞淑であれ、と言われ育てられてきたはずの娘たちが親への反抗からか、それとも元々の気質からかはわからないがともあれこっそりと火遊びを楽しむ場。堂々と顔を晒してどこの誰かがハッキリしている状態でやれば問題になるのがわかっているから、仮面舞踏会はそういう意味では打ってつけだった。
男性側も顔を知らないという状況を上手く利用していた。
どこの誰かを知ってしまえば、もし自分が手を出した事がバレたらとんでもない事に――なんて相手がいないとも限らないのだ。
あくまでも仮面舞踏会は顔を知らない者たちの、ほんの一時の戯れ。
けれどもそれはやはり表向きのものであり、あからさまな詮索はしないがそれでも探る事はある。
もしかしたら政敵の弱みが握れるかもしれないのだ。立ち回りを失敗すれば自分の弱みになる事だってあり得るけれど。そんなスリルも込みで楽しむような連中の集まり――それが、仮面舞踏会である。少なくともこの国では、という言葉がつくけれど。
しかしアデラはそんな裏を知る事などなかった。
きちんと淑女教育を学んでいたらそれとなく察する事はできたかもしれない。
けれどもアデラは一刻も早くパーティーに参加したいと目先の事に囚われて、仮面舞踏会は身分を隠して楽しめる、ちょっと危険な雰囲気もあるそれはもう魅力的な催しでしかなかった。
顔も知らない仲だけど、けれどもそこからいずれお互いの事を知っていくうちに……!?
なんて、娯楽小説でもそこまでなさそうな展開に胸躍らせていた。
アデラの両親――父はそもそも仮面舞踏会の裏などそこまで気にしていなかった。表面上、上澄みだけを掬うようにしていればそこまで被害が及ぶ事もない。立ち回りを気にしておけば滅多な事にはならないからこそ、ケニーは潜む危険性に気付かなかった。
何故ならケニーは顔を晒していれば見た目は極上なので噂に上がりやすいが、顔を隠せば中身は凡庸だったので。
そしてアデラの母はそんなケニーに若い頃に連れられて何度か参加した事があるだけだ。
常にケニーに連れられていって、貴族の社交界の一端にかすかに触れただけ。
彼女は平民であるからこそ、貴族たちの催しに堂々と参加などできるはずもない。だからこそ顔を隠してケニーと二人でいれば、お互い目立つ存在ですらなくなる。
アデラの母が特に何の問題も起こさず、また巻き込まれる事がなかったのはケニーと共にいたからだ。
しかしアデラは。
彼女は親の目を盗んで一人で参加するようになってしまった。
そうしてそれとなく情報を探られた結果、彼女の身元は早々に割れていたのである。
一応毎回同じドレスで参加していたわけではないので、あまり裕福ではない男爵家か、子爵家あたりの令嬢だと思われていたアデラだが、実際は令嬢ですらない、と知れ渡った事で彼女の周囲に集まるのは単純に遊べると思った相手だけだ。
気軽に遊んで捨てる時も罪悪感など抱く必要のない相手。
しかも身分も平民なので何かあってもどうとでもできる。
そんな相手がのこのことやって来ているのだ。
何らかの利を得たい者たちは早々にアデラの元を去り、そうして残されたのはろくでもない連中である。
だがアデラも出会った初日に身体を許すような真似はしなかった。
直接的に貞操云々と教わったわけではないが、それでも本能的に何となく危機感があったのだ。
なんだか自分にとても甘い言葉を告げてくれるけれど、なんだろう……なんか、イヤな感じがする……と、上手く言語化できない何かを感じていた。
だからのらりくらりと躱して、他の――もう少し信用できそうな相手に近づこうとした。
けれどもそういった相手は既にアデラから距離を置くと決めている。
結果として、いつしか仮面舞踏会でもアデラは満足できなくなっていったのである。
やっぱりちゃんとした社交に参加したい、と思ったので、再びナタリアに頼み込む事にした。
教育を受けなかった時点でナタリアもそれ以上アデラに何を言う事もなかったが、ナタリアはアデラが勝手に仮面舞踏会に参加している事を既に知っていた。
ちょっと危険な雰囲気漂う社交で満足しておけばよかったのに、そこで素敵な殿方を捕まえる事ができなかったからと、他の場所を狙うのはわかる。
わかるけれど――
「やめておきなさい。貴方、もう結構な勢いで噂が流れておりますのよ」
だからこそナタリアはアデラの願いを切り捨てた。
仮に次こそはどれだけ厳しくても頑張って淑女としての立ち居振る舞いと教養を身に着けると言われてもだ。
実際に教養が身につこうがつかなかろうが、どちらでもいい。
既に厄介な相手が目をつけようとしている片鱗をナタリアは感じ取っていたので。
けれどもナタリアのその杞憂をアデラは知らない。
今度は本当の本当に頑張るから! と頼み込んでも首を縦に振ってくれないナタリアに、最終的に我慢の限界が訪れてじゃあいいわよ勝手にするから! と啖呵を切って戻っていった。
そしてそんなアデラの後姿をナタリアは温度のない眼差しで見送った。
「仮面舞踏会でロクでもないのに引っ掛かるだけならまだしも、それ以外の社交なんてあの子、まさか本気かしら……」
顔を隠して一時の遊びに興じる仮面舞踏会の参加者なんて、一部の上澄みはさておき残りはほとんどろくでもない。そこで遊ばれて捨てられるくらいなら、市井で平民が貴族のお手付きになって捨てられるのと似たり寄ったりだからまだどうとでもなるけれど、顔を隠す事のない社交の場合もっと厄介な事だってあるのだ。
まさかアデラの両親はそのあたりを教えていないわけでもないでしょうに……とナタリアは思って、しかしそれ以上は自分が気にする事でもないなと割り切った。
一応父親が同じではあるけれど、別にアデラと姉妹としての思い出や何かがあるわけでもない。
ナタリアにそこまでの情が芽生えなかった。ただそれだけの話だ。
もしナタリアにもう少しだけアデラへの情が芽生えるような事があったのであれば。
少なくともこの先のアデラにとっての災難は回避できたかもしれなかった。




