第36話 メイド修行
薄暗いランプの明かりが、漆黒の壁と鉄製の影を揺らしている。室内には古めかしい椅子や無数の鎖、無言で立て掛けられた道具箱。
ここは一条家の屋敷の地下に位置する、秘密の拷問部屋。
レイとティナより一足先に任務にやってきたコハルは、屋敷で働く上での最低限の所作を叩き込まれていた。
黒のワンピースに白いフリルエプロンを重ね、ふんわり膨らむパフ袖とレース襟が愛らしさを引き立てる。腰で結んだリボンが揺れ、裾のプリーツが歩くたびに軽やかに広がる。
可愛らしさ全開で、すれ違う人は全員メロメロに。なるはずだったのだが──
「お、おおお、おかえりなしゃいませっ──お嬢様!」
「何を言ってるかさっぱりわからないわ! もう一回滑舌トレーニングからやり直しよ!」
「は、はい……」
「声が小さいわ!」
「はいッ!!」
「次はうるさい!」
「ひえぇー……」
ぎこちない笑みは見る人をゾッとさせるほど。
目をぐるぐると回し、60代くらいの熟練メイド長からの指摘はちゃんと頭に入っているのだろうかと心配になる。
このメイド修行、今日で2日目だ。初日の昨日は優しかったメイド長も、今日は頭の上にツノが見える(気がする)。
「声が小さい!」
「背筋をピンと伸ばす!」
「あー、もう! どうしてそんなこともできないの!?」
ここは拷問部屋。どれだけ大きな怒鳴り声も悲鳴も、上の部屋には聞こえまい。
そんな永遠と錯覚するような修行は3日間続いたのだった。
◇
「お帰りなさいませ、お嬢様っ♡」
「はうッ──」
キラキラと輝く、アイドルのような笑顔。胸の前、手で作られたハート。
メイド長は胸を押えながらその場にうずくまる。
「だ、だだだ、大丈夫ですか!?!?」
自分が知らないうちに悪い魔法を使っていたのではないか、とコハルは必死に肩を揺らして反応がないか確かめる。
幸いにも心臓は動いているし、息もある。
異常はないそう安堵した矢先──
「尊い」
「え?」
「尊い……尊すぎるわ……」
異常しかなかった。ヨダレをダラダラと垂らすその姿は、まるで血に飢えた肉食獣のよう。
コハルは薄々おかしいと思っていた。
今回の任務は一条家のお嬢様の護衛。それなのにどうしてメイド喫茶の接客でしか使わないようなことを言わなければならないのかと。
今やっとわかった。コハルはお嬢様ではなく、メイド長好みになるように色々と叩き込まれていたのだと。
「コハル……あなたはやり遂げたのよ……」
ほふく前進で一歩、また一歩と距離を詰めてくるメイド長。
その先に慌てるコハル。二人の間にあった間は少しずつ縮まる。
そしてメイド長の伸ばした手が、コハルに触れようとしたその時だった。拷問部屋の扉が地面に擦れる音と共にゆっくり開かれた。
「──遅くなったな、コハル。今日から俺達も社会復帰だ!」
タキシード姿でニヤリと口の端を上げるレイと、その隣にはコハルと同じ見た目のメイド服に身を包むティナ。
「「メイド長、今日からよろしくお願いします」」
その日、太陽が沈むまで年老いた女の叫び声が屋敷に微かに響くのだった──それが後に『一条家怪奇現象』の一つとして、代々語り継がれるのだった。




