第91話 塗布の準備
「――じゃ!オレはここで!
ムリーナ、朝からありがとな。ライチさんと屋敷に帰ってくるんだぞ〜」
村に着くやいなや、フェラドは身を翻して去ってしまった。
本当に忙しい隙間を縫って手伝ってくれたフェラドの背中に、日本式に感謝で手を合わせる。
「おはよう。ライチさん。これは、一体……?」
ラボル村長が村の入り口まで出迎えに来てくれた。
「おはようございます。昨日言ってた、透明液の塗りつけ道具と、これから二日間、作業でお世話になるお礼を持ってきました」
フェラドがいなくなった後のムリーナの様子を気にしつつ、ラボルに挨拶をする。
ムリーナは、飼い主がいなくなったことなど気にも留めずに、きちんと頼まれた任務を遂行するつもりのようだ。賢すぎるロバである。
「道具を貸してもらえるだけでありがたいのに、お礼……まさか報酬まで先によこす気で? しかも、こんな高価なものばかり……」
「あっ、塗りつけの道具は、終わったら村で何かにご活用ください。
あれ? 服とか調理器具で、報酬のお支払いをしますって、俺言いませんでしたっけ?」
ライチのその言葉に、ラボルは髭を撫でながら遠い目をした。
「我々のような市民権すらないような者たちに、まともに報酬を払うやつなんざいないさ。口ではなんとでも言えるがね。
……それがどうだい。一生手が出ないようなまともな物品に、さらに、仕事もしてないの先に支払い?? ……聞いたこともない。持ち逃げされる、手を抜かれる、なんて考えはないのかい?」
ライチはぽりぽりと頬を掻いた。
「昨日、村総出で一気にやるって言ってくださったんで、それはもう俺の中ではやってくれたのも同然かなと。実際やってくれるでしょうし。
俺のいた国では、給与の前借りは労働の法律的にアウトかもですけど……まぁ通販とかチケットとかは先払いだったし。
鍋とか服なんて、一日でも早くあるに越したことはないじゃないですか」
「話はよく分からんが……ライチさんのお人柄だな。
もちろん、これだけでなく、すでにたくさんのものを頂戴してるんだ。約束通り、精一杯やらせてもらうさ」
思考を諦めたように笑うと、ラボルは栄養不足のためか、しゃがれている声を張って、村人を集め始めた。
「おぅ〜い。朝飯時だが、ちょっと人を集めてくれや〜」
なんだなんだと、わらわらと人が村の入り口に集まってくる。
その間に、ラボルは近くの人手を使って、ムリーナから荷物を降ろし、地面に並べていった。
「大体来たか。おらん家には、適当に近くの家が伝言してやってくれ」
狭い場所につめかけた人々をさっと見渡して、ラボルが口を開いた。
「昨日伝えた、街の美化の依頼だが、依頼主のライチさんが、ありがたい食べ物の差し入れだけでなく、報酬として、作業前にもかかわらず高級品を持ってきてくれた。
フェラドが選んでくれたものらしく、数や種類も申し分ない。家庭の状況を見て、適当に渡すから、気に入らなければ家同士で交換してくれ」
場に並べられた物を見て、ざわめきが広がる。
たかだか下水溝の掃除で? たった二日で? 一生に一度、手に入るかどうかの高級品を? まだ作業もしていないのに? そんな声が聞かれた。
「昨日言った通り、ライチさんはこの村ごと、臭くなくて、ゴミがなくて、小さな子供まで健康で、美しいのが当たり前な、そういう街を作りたいと考えておられる。
協力を惜しむものがいるなら、今のうちに名乗り出ろ。報酬だけ受け取るのは、許さん。
ここは、ゴロツキが村の外にうようよいるような荒れた場所だ。高級品の扱いは、各家に任せるが、不在の場合、他の家と頼り合って、せっかくの報酬が奪われないようにしてくれ」
(城壁も門番もいないもんな……家の鍵どころか、ドアや窓の戸もないようなものだし……)
この荒れ地に、このボロボロハウスだ。
寒くても薪の確保が難しいだろうし、冬になる度に、村のほとんどの人が死に絶えるのではないかと思ってしまうほどである。
そんな家に値の張るものがあれば、空き巣に入りたい放題だ。ここに住んでいたフェラドがすすめてくれた物だから問題はないだろうが、ゴロツキが狙わないような、もっと安価な物にしてもよかったかもしれない。
「フリボ。ライチさんと一緒に、塗りつけの作業をやったことがあるのはお前だけだ。
道具を使ったやり方を、皆に説明してやってくれ」
フリボと呼ばれたのは、昨日、大聖堂周りの塗布を一緒に行った、痩せた中年男性だ。
「ほいきた。めちゃくちゃ簡単だから、みんなびっくりすんぞぉ。
ライチさん、昨日は生モンをありがとな!泣きながら食ってるヤツもいたんだぜぇ」
フリボが言うからと買った差し入れだったが、皆に喜んでもらえたようで何よりである。
塗布についての説明を真剣に聞く人だかりの中、最前列で熱心に聞いている女の子を見つけた。ペサだ。
「――ほい!これで終わり。これを街中全部やりゃ、ライチさんは大満足!てなわけだ。
いやしかし、栄養たっぷりだとこんなに力がわいてくるもんかねぇ。今ならおれ一人で、街なか全部塗りつけに行けそうだぜぇ」
「違うよ、フリボ!街だけじゃないんだから。
ペサが“浄化隊長”で、この村の汚いところ、臭いところにもぬりぬりするんだもんね。村長とライチさんに頼まれたんだから!」
フリボの言葉に、すかさずペサが反応した。
そうなのか? という大勢の目が、ライチを振り返ってくる。
「そうです。ペサちゃんには、この村の方の美化作業をお願いしました。総隊長はもちろん村長さんですけど」
ライチの言葉を受け、村に『あぁ……』という、子供を見守る納得が広がる。
「朝ごはんが終わったら、すぐやるんだから!街に入らない子供たちとじじばばは、食べ終わったらすぐここに集合ね!はい!解散解散!!」
六歳くらいの、しっかり者のお姉さん感が可愛らしい。
ペサの仕切りに、ラボル村長が笑いながら言葉を付け足した。
「ここにある報酬を持ち帰る手は残してくれよ。
街で仕事がある者は、空いた時間を縫って塗りつけの作業をすることになる。今日明日はいつもの何倍も手早く作業してくれ」
ペサとラボルの言葉に、おう!のような気合いの声があがった。
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「……アフィ、アフィーアーナ、アルフィーナ、アーフィナー、アルフィ……」
郊外村を出て、ムリーナを屋敷に帰し、銀行で出金し、各店舗への支払いを終えたあと。
ライチはぶつぶつと唱えながら、孤児院が目の前にある、大聖堂の敷地の南門までやってきた。
試供品を使ってみての感想を聞くためだ。
……が。例によって名前が怪しい。
スマホがあれば、すぐに登録をするので、ほぼ困り感がないのだが、それに慣れきって、昔より更に名前を覚えるのが苦手になっている気がする。
しかも、細いのに太田さんね!芸能人の佐々木さんと同じね!などの、イメージと名前を結びつける方法が、外国ネームだと途端に難しくなる。
ヴェルディウス神の、ベルで臼作戦はそこそこ成功したが、それも何度も神様ネームとの接触があって、ようやくだ。
(神様や地名はともかく、人名は特に失敗できないぞ……やばい)
散々おぼろげな記憶をたどった結果、ライチは戸の閉められた孤児院からではなく、ぐるりと回って、大衆に門扉の開かれた大聖堂から先に、くだんのアフィ……女性を探しに行くことにした。




