第88話 お試し塗布
「ふぅ〜〜……。目だけしか出さないと、いくら通気性が良くても、どうしても息苦しいなぁ。普段からこれを着てる人は大変だ」
来たときと逆の順序で、こそこそと裏口から建物を出たライチは、少し離れた路地で周りを確認してから、ようやく被り物を取った。
使用人とはそこで解散したので、昼前から自由時間となった。
(もう抜いちゃってあるフロステ草も気になるし、さっそくお試しで大聖堂周りの下水溝にスーパーバクテリアくんを塗布しに行っちゃおうかな)
そうと決まれば善は急げ。
プルデリオの屋敷に戻り、汚れ服に着替えたライチは、少し考えて、フェラドを呼んでもらうことにした。
「どしたっすか〜? フォークとかハシはまだあと二日ほどかかるかもっすけど」
商会の従業員として教育をされ始めているのか、身なりの良くなったフェラドが、汚物処理をさせてもらった部屋に顔を出した。
「仕事中にごめん。これ、下水溝が綺麗になる液体ができあがったんだけど、塗りつけるのは俺だけじゃなくて、普段掃除をしてる郊外村の人たちに、きちんと報酬を支払って、依頼しようと思ってて」
ライチが小桶に分けてあるスーパーバクテリアくんを見せる。しゃぼん玉のきらめきをするゲルが、とろりと揺れている。
「あぁ、あの肥溜め池からすくったやつ!えらく綺麗になったっすねぇ」
小桶を覗き込んだフェラドが、ポンと手を打つ。
「郊外村の連中は、正当な報酬をもらえることが少ないんで、ありがたいと思うっすよ〜!
数字に弱いから、現金で払うと、街での買い物の時に足元見られて損するかもなんで、食いもん以外なら服とか調理器具とか、現物支給の方が喜ばれるかもっすね〜!」
なるほど。フェラドの言う通りにしておこう。
「下水溝掃除のとき、素手でやってるのを見かけたんだけど、液を下水溝に塗りつける道具とか、そもそも液を運ぶ桶とかがないと、効率が悪すぎるかなって思ってさ。街に詳しいフェラドを呼んだんだ。
どこかで作業する人分の道具、調達できないかな?
あと、もし調達できたら、ムリーナさんに運んでいただいたりとか……できたら嬉しい」
「そゆことっすね! ムリーナは今、屋敷の敷地で荷物運びばっかやってるんで、ちょっと外に出すと喜ぶと思うっすよ!
道具も、この液を下水溝に塗るなら、木の棒の先にボロ布でも巻いてあれば充分っすよね? 代金はあとでもらうっすけど、昼休憩の間に、知り合いに声かけて、作業に関わりそうな村人分、用意しとくっすよ!」
(チャラチャラした感じなのに、ほんと理解が早くてできる子……ッ!!)
昭和の漫画に出てくる白目のお嬢様のような心持ちで、ライチは感激した。
「ありがとう!フェラド、さすが!
……できるだけすぐ欲しいんだけど、どれくらいかかるかな?」
フェラドはフェラドで忙しくしているので、申し訳ない限りだ。
「今日中に工房に依頼しといて、明日の朝イチでゲットしたら、ムリーナと郊外村に運んどくっすよ!
郊外村って言っても、人を動かすなら、村長と話すこともあるだろうし、今日は郊外村に依頼だけしにいって、実際の作業は明日からするとかにしたらどっすかね?」
もうほんとおっしゃる通りである。行き当たりばったり系リーマンのライチとしては、彼のイメージ力が非常に羨ましい。
「そうする!よろしくお願いします!」
昼休憩を潰して動いてくれるフェラドに、しっかりと頭を下げて見送った。
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「ほなうと、ほーこうぇかわふうおわ……」
(となると、今日これからするのは……)
厨房で作ってもらった硬めのフランスパンのようなパンでできたサンドイッチを、汚物処理の部屋でかじりながら、今日の流れを再確認する。
(屋敷にある道具を借りて、大聖堂あたりの下水溝にお試し塗布。
お試しがうまくいけば、差し入れの食料を持って郊外村へ。
クラフトで、肥溜め池を“スーパーバクテリアくん池”にまとめて変化。
村長に『明日朝に塗布用の道具が届くから、それを使って街中に、元肥溜め池の液をすくって塗って、フロステ草を植え付けてほしい』と依頼。
……だな)
池ごとクラフトするのは、果たして父性が足りるのか。謎ではあるが、父性なんて子供を思えば無限に滾ってくるものである。まぁなんとかなるだろう。
ごくりと最後の一口を飲み込んで、さっそく塗布に使えそうな道具を借りに向かった。
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「おっ、タイミングよく下水溝掃除をしてくれてる」
大聖堂の裏手、孤児院に近い門のある南側にやってきた。
上水路から取った水なのか、桶の水を下水溝に少量ずつ流しながら、手で固形物を下流へ下流へと払っている人がいる。
やってもやってもまた汚物が流れてくるから無駄。という気持ちがあるのか、完全に綺麗にする気は毛頭なさそうな緩慢な動きである。
ライチだって、可愛い我が子のオムツならば替えられるが、公衆トイレなどで、どこの誰かも分からない大人の大便が入った便器に、手を突っ込んで掃除するなんてまっぴらごめんである。やる気のなさそうな動きをするくらい、当然のことだろう。
「この雑巾モップに、スーパーバクテリアくんをつけて……と。いざ!ぬりぬり!」
塗布を“ぬりぬり”と呼んでしまうのは、育児語由来だ。「こら!まだお風呂のあとの“ぬりぬり”が終わってないぞ!こっちおいで!」などが例文である。
ゲルのついたモップもどきで、大聖堂の南門に一番近い下水溝を軽く撫でる。
シャボン玉のような、薄い膜が張っていくとともに、ヘドロのようなものがこびりついていた石畳の下水溝が、みるみる白っぽい灰色になっていく。まるで高圧洗浄機気分で、とても気持ちがいい。
下水溝中央には、水気の少ない無臭のヘドロが残っており、これがフロステ草の養分になる予定だ。
「仕上げに根っこ付きのフロステ草をポン。と」
根がヘドロに当たるようにして、背の低いフロステ草を下水溝のわきに置いた。
あとは勝手に根を伸ばして、増殖してくれるらしい。五センチほどの花が可愛らしい。
「よし、これで一ターン。いいんじゃないか? 臭いもここだけ全くないし、花も、綺麗に等間隔に並べていれば、誰かの意志が見えるから、勝手にどかされにくいだろうし」
実験は成功のようだ。次に欲しいのは、やはりマンパワー。
ライチは、一番近くで屈んでゆったりと下水溝掃除の作業をしている郊外村の男性に声をかけた。
「あの……この液をこの道具でさっと塗ると、もうそこは掃除をしなくてもよくなるんですけど、掃除ついでに、試しに一緒に塗ってみてくれませんか?
最後に出てくるヘドロ掃除は、この花の根がしてくれるので、これも等間隔に置いてほしいんですけど……」
郊外村の人物に声を掛ける街人は珍しいのか、男性は驚いた様子で立ち上がった。
まずは桶の水を流すからその(汚物まみれの)手を洗ってくれ、とライチが誘導していると、簡単に手を流しながら、男性が、あぁ。と、納得がいった声をあげた。
「見た顔だと思ったら、フェラドたちと食べもん持ってきてくれた兄ちゃんだな。
屈んで手でやらなくていいなら楽そうだ。こうか?」
情けは人の為ならず。すぐにライチのした行いが返ってきた。
痩せこけたボロボロの身なりの中年の男性だが、恩を返せるなら、と、急に目に光が宿ったように、てきぱきと動き始めてくれた。
「うわ……なんだぁこれ。塗った途端、手と水で転がしてたウンコまで、消えてなくなるぞ?
兄ちゃん……これ、本当に、塗って大丈夫なやつかぁ? 道まで溶けちまって、責任取って打ち首……とかならねぇよなぁ?」
(その気持ち、すっごくわかる!)
ライチも全く同じ不安に駆られたので、もう一本のモップで一緒に塗布しながら、うんうんと頷いた。
「そう思うのも無理ありません。実はこの液、ヴェルデウス神のご加護のあるありがた〜い液体でして、神の意志に背くような迷惑なお掃除はしないそうです! 俺も心配になって調べたんで、よく分かります」
「はは〜……。ヴェルディウス様のご加護があるなら、大丈夫なんだろうなぁ。だから大聖堂周りに塗ってんだな」
ベルで臼、と覚えたせいで、名前を少し間違えてしまったが、神様ネームゴリ押しで、なんとかお手伝いいただけそうだ。
「そうみたいです。どんどん綺麗になるから気持ちがいいですよね。
……実は、このあと郊外村の皆さんにも、今後街中の下水溝に、この液の塗りつけしてもらうのを頼みに行きたくて。
もし今日の担当分のお掃除が早めに終わったら、一緒に村まで来てもらえませんか?」
「勿論だ。担当分を手伝ってもらえて、なんならありがてぇや」
作業を再開しながらニカッと笑った男性の歯がスカスカと抜けている。
「……あ!」
少しの間をあけて、男性は急にピタリと手を止めると、更にいい笑顔になった。
「今日も差し入れあるんかなぁ。たまには日持ちのしねぇ良いもんとか食えちゃったり……する?」
ライチは笑って了承した。




