第79話 酵母液のアドバイス
ピ料理長は、ライチのあまりの真剣な態度に、少し心を動かされたようだ。
「……一歳まで、ですね。できる限り周知させていただきます。
蜂蜜を販売する薬草屋にも、赤子を襲う毒の芽のことは伝えておきましょう」
きっと本当に心から信じている訳ではないだろうが、嘘でもそう言ってもらえて、ライチの心は救われた。
(なんか……ちゃんと名前を覚えていなくて、申し訳ないな……)
「それに、そのような危険があるのならば、赤子には蜂蜜ではなく、ライチ様の甘味シートを使うように販売とともに普及すれば、今後、その毒の芽に襲われる子も減るかもしれませんね」
申し訳なさに目を伏せるライチに、料理長が続けた言葉は、とてもよい提案だった。
「な、なるほど……!今後売り出す時に、“栄養はないけど、赤子を襲う毒の芽もないよ!甘みで食欲はそそるよ!一歳まではぜひ甘味シート!”みたいな売り方、いいですね!
薬草屋だけでなく、養蜂の方にも伝えに行けば、揉めなさそうですし。一緒に考えてくれて、ありがとうございます!
……その……大変失礼なんですが、実は俺、寝ぼけていたのか料理長のお名前を覚えてなくて……すみません。もう一度お名前をお聞きしてもいいですか?」
非常に今更だが、ライチはついに正直に名前を聞いてしまった。
料理長は、まったく気にした様子もなく、にっこりと微笑む。
「サピダン、と申します。
“味わい深い”のような意味が込められた名前が、まさに料理人にピッタリでして、個人的に気に入っております。覚えようとしていただけて、非常に嬉しいです」
(ピは二文字目だった……!サピダン、サピダン……覚えた!)
「サピダン料理長。ありがとうございます」
「いえいえ。……では、パンのお話の続きを伺ってもよろしいでしょうか? お嬢様のためにも、甘いパンや、ふわふわと軽く柔らかいパン、実に興味があるのです」
木札を手にしたサピダンの目がキラリと光る。
「そうでしたね……!子供の安全のこととなると、周りが見えなくなってしまって、すみません。
実は、ビール酵母は、安定の代わりに、発酵が少し弱いんです。ふわふわと柔らかくするには、これまで切り捨てていた、果物酵母が向いていると思います」
「それでは、果実酵母のムラっ気問題は、どうクリアされるのでしょう?」
(どこの厨房でも再現できるような、安定供給がもちろんベストだけど……)
「すみません、俺が知ってるのは、“お金”と“気合い”のやり方だけです」
サピダンが、神妙な顔つきでゆっくりとその言葉を噛みしめる。
「きあい……」
子供の教育には、出来合いのものをポンと渡すより、一から実地で手作りするのが一番だ。
生乳からバターやチーズ作り、牛乳パックから紙を作る、廃油から石鹸を作る、などなど、一通りの親子クラフトには手を出してきた。
(果実酵母液も、その一つだったんだよなぁ)
無農薬の皮付き果物と水さえあれば、数日間、一日一回蓋を開けて換気すれば、シュワシュワの炭酸飲料ができる。
もう少し置けばシードルというフルーツビール、さらに置けばフルーツビネガーもできる、非常にお手軽なクラフトだった。
もちろん酵母はパンを膨らませるのにも使った。……が、確かに、ムラッ気だったのか、市販のベーキングパウダーほどの膨らみはなかった。
「気合いです。液を多く取りそろえて、泡の出の良い液だけを選んで使うんです。一度いい菌を見つければ、あとはそれを秘伝の酵母液にして、新しい果物を継ぎ足していけば使い続けられますし」
ペニシリンも、いい酵母菌も、出会えるかは運任せ……数を揃える“お金”と“気合い”だ。
「まず、いろんな種類の果物を用意します。リンゴやブドウ、イチゴ、ブルーベリーなどですね。同じ種類でも物によって保有する酵母菌が違うので、それぞれ数もたくさん必要です。
皮に大切な酵母がついているので、果物は皮や果肉、種ごと、清潔な容器に入れます。
毎日開けるか、完全には密閉しないようにしてください。発酵の際に出るガスを逃がすためです」
「ほう……酵母のためだけに多くの生の果物を取りそろえるとは。かなりリッチなやり方ですな。
ビール酵母はオスティア河港の造酒所から運んでくる間に元気がなくなることも多いので、厨房で新鮮なものを作れるのはよいですな」
(言われてみれば、めちゃくちゃリッチすぎる提案だよな。どうしても現代日本の感覚で考えてしまうけど、せっかくの新鮮フルーツを酵母菌探しのためだけに使ってしまうんだもんな)
「その容器を一週間ほど置き、ちょくちょく優しく振ると、酵母が活性化して、液体がシュワシュワと泡立ってきます。これで酵母液は完成です。
見た目の泡立ちが一番激しいものを選んで、ゆっくりと発酵させれば、かなりふわふわとしたパンができると思います。
落第の酵母液は、シュワシュワの液体としてそのまま飲んでも美味しいし、しばらく置けばお酒やお酢になります。この辺はサピダン料理長の方がお詳しいかと」
「そうですね。落第組も無駄なく使い切ってみせましょう」
長らく天然酵母でパンを焼いてきた職人さんだ。頼もしい。
「できた酵母液は、七日間くらいなら常温でも持ちます。暑くて汗をかく温度や、寒くて長袖が必要な温度は保存に向かないので、人が快適に過ごせるような場所で保管したほうが安全です。
使い切る前に、同じ種類の生の果物を加えて酵母を継ぎ足ししていくと、せっかく見つけたよい酵母を長く使い続けられます」
「よくわかりました。なるほど。確かに、資金力と気合いでございますね。明日の市で片っ端から各種類、複数個の果物を調達して、さっそく取りかかってみます」
サピダンはさっそく使いの者に指示を飛ばした。買い付けの係に連絡がいくのだろう。
「極上の酵母液が出来上がってからのことも、簡単にお聞きしてもよろしいでしょうか?」
サピダンの目のギラつきは全く収まっていない。ライチは説明を続けた。
「釈迦に説法……いや、サピダン料理長には不要な知識かもしれませんが、基本の材料から確認しますね。
まず、小麦粉はなるべく白いものを使ってください。膨らみが良くなります。石臼で挽いたあと、ふるいにかけて、ぬかや粒を取り除いた、ふるい粉を使います。
次に、塩をきちんと加えること。塩がないと、発酵が暴れて酸っぱくなりますし、生地はダレるし、風味も落ちます。逆に多すぎると、発酵しなくなるので、ほんの一つまみで。
最後に、砂糖や蜂蜜を少し混ぜること。これは、酵母の働きが良くなり、色づきがきれいでほんのり甘くて美味しくなります。これもほんの少しまでで。多すぎると酵母が働かなくなります。
……甘味シートには酵母菌の喜ぶ栄養は含まれていないので、発酵を気にせずたっぷり甘くなるまで入れることもできるのは利点なんですが、入れてもそういった変化はないので、少しは甘い栄養を入れないと、膨らみが悪くなりますね」
「一長一短ですな。甘い栄養、とは、どんな物が思い浮かばれますか?」
「干しぶどうでも、麦芽でも、リンゴや梨の果汁でも大丈夫です。……あとは、牛乳を少し加えると、乳糖、たんぱく質、ビタミン群……などなどの、栄養が酵母菌の働きを助けて、より柔らかくなって焼き色も良くなり、香りも出ますよ」
「牛乳ですか!朝食でもふんだんに使われておりましたが、本当に貴族様もびっくりの高級レシピでございますね」
あると言われたから気にせず使っていたのだが、牛乳もとても高価なものらしい。スピネラ村になかったので、高いだろうとは思っていたが、徒歩二日のオスティアに山ほど牛がいると聞いていたので、気にもしていなかっ……
(……ん? 徒歩二日? ……生乳が??)
ライチはそこまで考えて、はたと気づいた。
手絞りでは雑菌も多かろう。
イメージで言えば、口をつけた飲みかけの牛乳を、常温の暖かい場所に丸二日放置するようなもので……。
「あれ? 牛乳がここにあるのって、実はものすごいこと、です……?」
「そうでこざいますね、足が早すぎて、市場ではまず見ませんね。
我々は、オスティア河港まで使用人が買い付けに行き、現地でしっかり煮沸して保存可能にしてから、馬車で一日半かけて運んでおります。
貴族様は、魔力が余っているようなご家庭は、魔道具で冷やしながら食材集めをするようなので、牛乳もそこに入っているかもしれませんね。
生乳のままでは、ここカステリナに持ち込んでも、もちろんすぐに駄目になってしまいますので、毎日消費する分量だけ仕入れて、ここで加工品にするか、すぐに消費するか、としています。
ライチ様のレシピはどれも斬新で高級で新鮮で、驚きの連続でございます」
(わざわざ個別に加熱殺菌してから運ばせたものだったんだな)
スピネラ村からの道中にあったヤギの村みたいに、逆にオスティアの方が、搾りたての生乳が飲める、ということらしい。
(そのうち甘味シートを量産できたら、牛乳を使ったスイーツはカステリナじゃなくて、オスティアで作るのがよさそうだな)
そう考える横で、サピダンが手元のメモとライチの顔を交互に見ながら続きを所望しているアピールをしてくる。
ライチは記憶をたどりながら続きを伝えた。




