第1話 転移と初スキル発動
「……森、だな」
眩い光と、三半規管を頭蓋内でぐちゃぐちゃに掻き回されたような強烈な感覚のあと。
尻餅をついてへたり込んだ土地で目を開けると、尻の下には土と石と草。眼の前には木々。
地面についた手の上を、虫か何かが這ったような気がして、反射的に手を引っ込めた。
森なんてどこも似たようなものだろうが、木々の隙間から見える青と橙の混ざった空には、まだ日は暮れていないのに、すでに数多の星がきらめき始めている。
(都会近くの森ではなさそう……まさか、樹海……?)
こんなところで夜を迎えれば、イコール死。……とまではいかないだろうが、かなり危険なことはさすがに分かる。
ひとまず立ち上がり、手癖で尻の汚れをはたいた。
普段する動作をしたことで、スイッチが入ったのか、遅れてふつふつと怒りがこみ上げてくる。
(万が一!億が一!あれが夢でなくて、ここが“アイツ”の言う通りの、“日本とは違う世界”なんだとしたら……)
何から何まで不親切極まりない。
飛ばしてくれなんて頼んでない。
飛ばした先も危険な香りがいっぱい。
(ありえない、ありえない、ありえない)
まずは冷静に、身の安全の確保を最優先に動くべく立ち上がったはずだったが、先の会話を思い出して、思考が怒りに染められていく。
そもそも、元をたどれば、ほんの数分前までは会社での休憩時間だったはずだ。
長時間の会議後の、手短なティーブレイクタイム。
天気のいい日には、わざわざ屋上まで上がって、ぼんやりとコーヒーを片手に、空を見ながら一息つくのが、ルーティーンだった。
半分ほどになったコーヒーをベンチに置いて、空を仰いで息を吐いた瞬間。
気づけば、虹と夜空をかき混ぜたような、視界すべてがマーブル色の不思議な世界に立っていた。
(あれ? 貧血? 座ってたけど立ち眩み?)
座っていたはずの身体が、地面がどこかも分からないような場所で、立ち上がっていように感じるのが不思議だ。
(白昼夢……? そこまで疲れるような会議じゃなかったけど……)
意識が妙にクリアなのが、夢らしくない。
「……ライチ。有馬ライチ」
自分、ライチに呼びかける声。
なぜ今まで意識が向かなかったのか。
眼の前には “THE 神様” みたいな人がいた。
---
全く現実味のない森の中、水音が聞こえる気がして、適当に地面のぬかるみを調べながら、怒りに任せて一人、文句をたれまくる。
「『善行を積んだ者の中でも、もうすぐ死ぬ命を異世界に飛ばして救っている』、だぁ?」
神様モドキからは、とんでもない説明を受けた。
理性的に見れば、どう考えても夢でしかない状況だったが、なぜだか分からないけど、本能が“これは現実である”と警鐘を鳴らす。
ライチは理性と本能の板挟みからパニックに陥り、わけも分からず神様モドキ相手にまくしたてた。
『んだそれ?! 異世界転移ラッキー★チートスキルで無双だぜ★ってかぁ?』
(こういう作り話は、天涯孤独です!とか、現世でちゃんと人生を全うして死んじゃった……とかの人が行くのがセオリーだろ!)
言い放った自分のセリフを脳内再生しながら、地面を調べた流れで、湿った落ち葉を握り潰す。
『ふっ……ざけんな! もうすぐ死ぬ?? ならそのままほっといて死なせてくれよ! そうしたら……せめて、死亡保険金で家族にいい暮らしさせてやれんだろうが! 死んでもいいから俺を戻せよ!!』
本能が、 “目の前にいるのはなんかヤバい存在だぞ” と猛烈に伝えてくれているのに、それよりも、家族を想う気持ちが上回る。
(異世界に転移させれば、死の運命から逃れられる、とか……神様だか白昼夢さんだから知らんが、なんて無責任な! 残される家族のことなんて、一ミリも考えてない)
衝動に任せて、なんの罪もない落ち葉を手近な木の幹に投げつける。
妻のリノ。
もうすぐ小学生の長女のルノ。
ルノの二歳下の長男のレント。
それから……まだ生まれたばかりの次男のロク。
学生時代から仲のいい妻と、可愛いさかりの三人の子。
ザシュッ ザシュッ
爪の間に土が食い込むが、回想に気が取られ、落ち葉と木への八つ当たりが止まらない。
『転生ならともかく、転移なら、死体なんてあがらないよな? 消息不明じゃあ、保険金も下りなきゃ、葬式もあげられない。
消えた父親・夫を信じていても、『どっかにイイ人でも作ったのかねぇ』なんて、うちの家族が陰口叩かれたら、どう責任取ってくれんだよ?』
夢だとしてもこの暴論は看過できない。
神様モドキは、得体の知れない目で、じっ……とこちらを射抜くのみ。
『帰せ! 家族ともう会えなくなるなら、どこに飛ばされようが死んだも同然だ! わけわからんお前じゃなくて、日本の八百万の神様のくれた天寿をまっとうして、せめて家族にいい思いをさせて死ぬ!!』
目の前の神様モドキは、静かに首を振るだけだった。
ライチの頭に、更にカァッと血がのぼる。
どうせ夢か、もうすぐ死ぬらしい命だ。
神様モドキだろうが魔王サマだろうが、つめよって胸ぐらでも掴んでやる。
しかし、歩けど歩けど足が空回って進まない。
神様モドキが、口を開く――
ライチはそんな回想をしながら、機械的に、少しずつ湿り気の多い地面を選んで進んでいた。
とりあえず、サバイバルの基本。まずは水を確保したい。あと、安全な寝床。
夕方に差し掛かり、薮に囲まれ、木々に見下ろされるライチの視界は、どんどん暗くなっていく。
夢の可能性はまだ全く否定していないが、一応夢の中の森だとしても、安全確保くらいはしたいものだ。
「な〜〜にが、『戻せない代わりに、その強い想いを形にして、スキルを授ける』だ! ズレた解答よこしてんじゃねぇよ」
仕事用のよれた革靴で、手近な石ころを蹴り上げる。石は、少し離れた薮を揺らして落ちる。
神様モドキに与えられたスキルの一つ目は【ATM】。
保険金の代わりに、“異世界で稼いだお金を、家族に送れる”、というものらしい。
そして【父性クラフト】。
“子どもを想う愛が、もの作りに発揮される”らしい。
そして配送スキル【パパゾン】。
………これに至ってはもうふざけているとしか思えない。
ライチは石ころを踏みつけて、声を震わせた。
暗くなっていく世界が、土の入り込んだ爪が、肌を撫でる風が。
ライチの本能に“これは現実だ”と突きつけてくる。
「ATM? クラフトって……。愛しい相手もいない世界に一人放り出されて、どうしろってんだよ……。
ルノ……レント……ロク…………リノ……」
家族の名を呼んだだけで、『もし、これがモドキの言う通り現実だったら? あれはモドキではなく、本当に神様だったのでは?』という切迫感が、息もできないほど胸を締め付けてくる。
(誰か、嘘だと言ってくれ)
へたり込みそうになった瞬間。
ガササ……
物音がした気がした。
反射的に音のする方を見る。
風……ではない。右前方。石ころを蹴り飛ばしていた方角だ。薮が不規則に揺れている。
ガサ……
ガササササ!
「うわあぁっ、なんか来たぁ!」
全ての思考を放棄して、音の正体に全集中する。
茂みから飛び出したのは、耳の長い可愛いウサギ……と思いきや、鋭く目が光っているし、牙は生えているし、キシャァァみたいな声を上げてこっちに飛んできている。
(絶っ対!ただのウサギじゃない!)
いくら小動物でも、相手が獰猛で、こちらが丸腰では、恐怖でしかない。
(えーっと、俺は丸腰……ほんとに丸腰か?!
持ち物でなにか使えるものは?!)
有馬ライチ、三十二歳のまったりバディ。格闘技経験なし。
リーマンスーツ。革靴。コーヒー、なし。スマホ……はデスク。
ポケットには同居のお義母様がアイロンしてくれたハンカチ。
ーー以上。
「ムリムリムリムリィィ!」
この間一秒。
せめて営業用バッグでもあれば……!と、威嚇のつもりの悲鳴のようなものをわめきながら、逃げの一手を選択しようとした瞬間、ズザッ!と草をかき分けて一人の男が飛び出してきた。
「しゃああっ!」
ボグッ
農具……クワだ。それを横薙ぎに振り抜くと、モンスターウサギがそのまま森の奥へ吹っ飛んだ。
「ふぅ、ギリ間に合ったか。……おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……です。助かりました……!」
反射的に答えた。
日本語?なのかは分からないが、とにかく相手の言うことが理解できた。こちらも日本語で返してみる。
男はがっしりとした体つきで、浅黒く、髪も無精ヒゲもワイルド。でもその目には心配と優しさがにじんでいる。
「…………お前、旅の人か? ここらは、たまにだが、小さくても獰猛な魔物が出る。夜になる前に泊まるところを探したほうがいいぞ」
あたたかい声に、これまでの緊張が一気にゆるんだ。
(会話が……できる。なんか、いい人そうだ……)
謎の森の中で、空腹と喉の渇きとモンスターに怯えながら、一夜を過ごさなくても済むかもしれない。
「うちは小さい村の農家だが、泊まるところがないなら……というか、子どもらがうるさくてもよければ……来るか?」
子ども。
反射的に家族を思い出して胸が締め付けられる。
脳裏に浮かぶのは、ルノの笑顔、レントの寝顔、ロクの泣き声。そして、家事に育児に奮闘するリノの、愛にあふれる微笑み。
(夢の可能性もあるけど……)
夢だとしても、まずは目の前のことをこなさなければ。
「……お願いします」
たまらず、ライチは頭を下げた。
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「――こぉら、シーラ!まぁた床でやったのか」
自宅だという場所に通された。
男はバルゴというらしい。道中で軽く自己紹介をし合った。
愛のある大きな声に、泥まみれの赤子が嬉しそうに土の床をはいはいで逃げていく。
ライチは言葉を失っていた。
やっと得た人里の安心感を、軽く凌駕するその衝撃的な光景に思わずドン引きしてしまう。
自宅が土床なのはまぁいいとして。今バルゴが砂をかけて外に履き出しているのは、どうみてもぷんと臭うアレである。
「……ここで……生活してるのか……」
「まぁな。村じゃ普通の家だぜ?」
「いえ……家というか……アレの横ではいはいしちゃってるというか……」
「子どもは土にまみれて育つんだ。丈夫になるっていうしな!」
バルゴは笑ったが、全然笑えない。「衛生観念」の一画目の「ノ」すらない状況だ。
(こ、これはいかん……!)
頭を抱えるライチの目に、赤子……シーラの股間が見える。布もなにも巻かれていない。生まれたままの状態で、堂々たる無防備。
(ひっ!た、垂れ流し?!)
「……オムツは?!股間を覆うやつ……履かせ忘れ……ですよね?」
「んだそれ?服みたいなもんか?」
ライチの頭の中で、パパ警報が鳴り響く。
(これはいかん……!せめて、せめて大だけでも!布一枚でも!)
「バルゴさん!いらないボロ布、ください!今すぐ!」
「えっ、あ、ああ……」
土間から繋がる部屋に消えるバルゴ。出てきて手渡してくれる布を大急ぎで受け取ったライチは、即席でふんどしのように子どもの腰に巻きつける。
ガーゼの代わりにもならないスカスカの古布だが、無いよりマシだ。はいはいしてる子の柔らかいヤツは、多分通っちゃうかもだけど……なんせとにかく無いよりマシだ。
(これじゃ、すぐ濡れて意味がない……吸収力のあるものがないと……)
「まぁ、なんだ、暗くなると、油を使って明かり取りをしなきゃならねぇし、とりあえず飯食って一眠りして、それから考えちゃどうだ? その服装を見るに、ワケアリなんだろ?」
バルゴがライチのスーツを見ながらそう言った。
言われてみればアドレナリンの過剰排出でどっと疲れてる気もするし、見知らぬ場所で即席でオムツを作っている場合でもない気もする。
ここはお言葉に甘えて、ライチは一旦、鼻も目も含め、全ての感覚器官から派生する衛生環境に関する思考を停止した。
続々とご家族が自己紹介をしてくれる。
バルゴと同様に優しく、明るく声をかけてくれたが、何せいろいろと思考停止中なので、奥さん、息子さん、息子さん、そしてシーラちゃんだな。ということだけなんとか認識できた。
特に年齢は言ってくれなかったし、聞かなかったが、若い奥さん、幼子、幼子、赤子、という見た目のご家族だ。
みんなで手も洗わずに、何かの肉……? と、野菜のスープと、かっっったいパンを食べる。
味もほとんどしないが、食べさせてもらえるだけ、ありがたい。森で一夜を過ごしていたかと思うと……ゾッとする。
そのパンをちぎってる皆さんのおてての色……いや、もう見るのはやめておこう。
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「寝具まで……いいんですか?」
「こっちはちょっと敷き藁を平たくすりゃ川の字で寝れるからよ、気にすんな。まずは寝ろ寝ろ。」
ご家族皆さんに感謝して、板間の藁っぽいものの上にゴワゴワしている布っぽいものを敷いた寝具で、虫さんをピンとはじき出しながら寝させてもらう。
寝具は別だが、土間から繋がるのは物置のようなもう一室と、小上がりしたこの板間一室のみ。寝具を分けた意味もないほど、ほぼ川の字だ。
(う〜〜……ん………。まぁモンスターに襲われるかもしれない森で野宿するより格段にいいよな。うんうん。バルゴさんたち、ありがとう……)
家族のこと、これからのこと、シーラちゃんのおシモのこと…考えたいことは尽きないが、シャットダウンついでに思考も停止したらしく、こんな状況でもさっさと眠りにつくことができた。
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窓の外から、バルゴの怒声が聞こえた。
「おい!ミズヨリグサが水場に溢れてやがるぞ!」
「誰だよここに落としやがったのは!根付いたらどうしてくれんだ!」
(ミズヨリ……グサ?)
朝だ。全て夢であって欲しかったが、まだ昨日の世界が続いているようだ。
奥さんと子供たちの姿もないので、そのまま声を目指して家を出てみると、少し歩いた先で、バルゴ一家とそのほか何人かが、うねるように広がるワカメのような草を忌々しそうにかき集めていた。
長くてねばつく、どこか水気を帯びたような葉。会話的に、とにかくすぐに撤去しないと根付いて面倒なことになるらしく、皆一様に必死である。
その瞬間、脳内に無機質な声が響いた。
《パパサーチ 発動》
パパサーチ? と思うのと同時に、脳内に知識が流れ込んでくる。
[新規項目追加]:布オムツ《ミズヨリグサ仕様》
【クラフト方法】
ミズヨリグサの葉を数分煮沸して中の水分を追い出す。その後、数時間乾燥し、展開すると出てくる、内側の吸水層を布で挟む。
吸水層の両端を布から一センチメートルほどはみ出すように配置することで、天然素材による“モレ防止ギャザー”として機能します。
【基本仕様】
・煮沸によって吸水層の余分な水分を抜くことができるので、洗濯と再利用が可能。
・吸水スピードも高く、しっかり吸水!赤ちゃんもごきげん!
【ご注意】
・ギャザー部分が劣化したら吸水層ごと交換を。
《パパの育コツメモに自動保存されました》
「……なん……えっ?……こっ、これだ……!」
オムツ!オムツオムツ!
何がなんだか分からないが、目の前で忌々しげに刈られている草で、布オムツができるらしい。ならばライチの取るべき行動は一択である。
「バルゴさん、その草、もらえませんか!捨てるなら!全部俺に!」
「そりゃ、いくらでもくれてやるけどよ……。根付かないように、浮かしておいてくれよ」
ライチは喜び勇んで皆と一緒にミズヨリグサを駆除した。
すぐさま奥さんにお願いして、土間の台所を貸してもらい、葉を軽く煮沸する。取り出してみると、煮たはずなのに不思議と萎んでいる。
「……本当に水分が抜けるのか。これなら吸水ギャザーから排水できるから、洗濯もいけるな」
煮沸してしっかりと乾燥させれば、また元の吸水性を取り戻すらしい。
(この性質、かなり使える)
確信しながら、外の物干しをお借りして干すところまで終わらせる。
(…………父性クラフトに、パパサーチ、か)
モンスターのようなものに襲われ、スキルなんて発動されてしまった日には、いよいよ神様モドキが、本当の神様かもしれない説も濃厚となってきた。
(神様……か。アイツが本物なら、この世界も夢じゃ…)
ちらりと考えかけた怖い想像を、首を振って払う。
(夢だろうがなんだろうが、とりあえずできることは、家族への仕送り!あと、オムツづくり!俺は父親!!集中!!)
ライチは両手で頬をバシンと叩いて気合を入れた。
「ミズヨリグサは、食用には向かないよ」
「あ……えっと、マーヤさん」
気を取り直して、乾け〜乾け〜とミズヨリグサに手で風を送っているところに、戸口に立ったバルゴの奥さんのマーヤが、シーラと朝食のパンを抱えながら声をかけてきた。
「水をよく吸ういらない草なんで、オムツに使えないかなぁと思いまして。オムツって、こういうやつなんですが……」
パンに吸い寄せられるように朝食の席についたライチは、ちぎったパンをゆっくりスープでふやかしながら身ぶり手ぶりで説明する。
「はぁ。あんまり気にしてこなかったけど、言われてみれば、便壺ではもちろんできないし、いちいち床から肥溜めまで掃き出すのも手間だし、寝具のでかい布を毎日びっしょりにされるのは困ってたかもね。
昨日巻いてた布は、すぐびしょびしょになったから冷える前に剥いで洗っちまったけど、そういうつもりだったんだねぇ。
ライチは、変なかっこうだし、考えることも変わってるね」
(剥いた……まぁ小を受け止められなきゃ、そりゃそうだよな…)
あとから加わったバルゴとお子さん二人とで、全員との朝食を終えると、家の中は一気に慌ただしくなった。
バルゴは立ち上がり、腰に必要なものをぶら下げる。
「行ってくるぜ。ライチを頼んだ」
妻と子どもたちへ向けた、何気ないが優しい声だった。
「いってらっしゃい。今日の昼は畑に持っていくね」
マーヤはシーラをあやしながら微笑む。
その腕の中で、赤子は満足そうに小さな手をもぞもぞと動かしていた。
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カラッとしたいい天気の日だが、ミズヨリグはまだ乾いていない。ライチはマーヤに声をかける。
「俺、家のことで、何か手伝えることがあればやります。掃除とか。掃除とかッ!!」
「じゃあ、掃除と……水汲みをお願いしようかな。今からティモとエルノが行くから、一緒に行ってくれる?」
家の隅に、焼き物のかなり大きな水瓶が置かれていた。
蓋を少し開けて覗き込むと、底の方に澄んだ水が残っている。
木の柄杓が一本、横に置かれ、そばには浅い桶も伏せてあった。
(これに家族分の水をためるのか。結構な量だな……)
ティモとエルノが戸口に立ち、それぞれ木のバケツをしっかりと両手で支えていた。
四歳くらい? の弟のエルノはまだ少し小さなバケツを使っているが、力強い足取りで前に出る。
「水汲みって、毎日やってるの?」
「うん。オレたちの仕事なんだ」
お兄ちゃんのティモが大きめのバケツを持って、胸を張って答えた。立派な受け答え。こちらは六歳ごろに見える。
「どのくらいかかる?」
「んーと……お腹すいてきちゃうくらい!」
「……二、三時間ってとこか」
ライチは思わず口元を引き締めた。
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井戸は家から少し歩いた先にあった。
広場の中央に建てられた共同の井戸には、すでに村人がたくさん並んでいた。
すぐ横の水場では、簡単な洗い物や洗濯をしている女性たちの姿が、ちらほらと見える。
冷たい水で布をこする音と、かすかな笑い声が風に乗って聞こえてきた。
(洗い物は、井戸の水を大きなたらいに入れて洗い場で。飲み水は汲み上げて自宅へ、ってことか)
ティモとエルノは手慣れた動作で水をくみ、バケツを両手で抱える。
ライチも少し遅れて水を汲むが、持ち上げた瞬間、予想以上の重さに肩が沈んだ。
(重っ……これ、子どもが毎日やってるのか)
村道を歩きながら、二人の後ろ姿を見つめる。
大きな荷物を抱えたその姿に、ふと、五歳の長女ルノと、三歳の長男レントの顔が重なった。
あの子たちは今ごろ、何をしているのだろうか……。
(……いや。まだ夢の可能性を諦めてないぞ。それに……もし、本当にもう駄目だとしても……まだ仕送りはできるんだ)
首を振って郷愁を振り払うと、バケツの中の水が静かに揺れた。
綺麗な水に見えるが、目で見えるものが全てでないことは、現代日本人としてよく知っている。ふと胸をよぎった疑問。
「……この水、子どもたちが飲んで大丈夫なのか?」
《パパサーチ 起動》
次の瞬間、頭の中に情報が流れ込んできた。
《綺麗な井戸水:
慣れていればそのままでも飲めるが、乳幼児には湯冷ましにしてからの使用が望ましい》
情報が、脳の内側に直接響いたようなあの感覚。
“子を思う父性”に反応するように、サーチは発動したようだ。
(おお。こういう発動の仕方もあるんだな。いろいろと重宝しそう)
それからの水汲みはスムーズに進んだ。
家から井戸まではわりと近いのだが、並ぶのに時間がかかるのと、ロープが長くて子供の力では汲み上げにも時間がかかるようだった。
ライチが加わったことで、作業の効率は明らかに上がったようだ。
(二人を見た感じ、おそらく、普段の倍ほどの速さで進んだんじゃないか?)
初仕事に自画自賛しながら最後のバケツの中身を水瓶に注ぎ終えると、ティモがぱん、と手を打った。エルノも飛び跳ねている。
「こんなに早く終わったの、はじめて!」
「じゃあ、ぼくたちは薪拾いに行ってくる!」
「木の実も見つける!」
二人は駆け足で玄関を飛び出し、村道をまっすぐに走っていった。
(よく働くなぁ)
微笑ましく見送って、ライチは柄の短いほうきに手をかけ、ちらりと物干しのほうを見る。掃除の終わり頃にはミズヨリグサも乾いていそうだ。
(さて……こっちも、片付けるか)




