第五五話 恐怖の夜(テラーナイト) 〇九
「アマラ……僕は君を止めなければいけない……それが僕の役割だと思っている」
銀色の狼獣人である志狼さんは私を庇うように荒野の魔女ことアマラ・グランディとの間に立ちはだかると、ギリギリと全身の筋肉を硬直させて……戦闘態勢をとっている。
「はっ……あなたが私を止める……? 馬鹿なこと言わないでアーネスト……」
アマラは小剣の刺さった肩を手で押さえながら、血が流れて少し血色の悪い顔で歪んだ笑みを浮かべて、志狼さんを見ている。少しだけ目が潤んでいるのだろうか? 肩で息をしている彼女は本当に苦しそうだ。
突然彼女の横にいた火精霊が溶けるようにその姿を消していく、魔力の供給が絶たれたのだろう。
「私が……止めて欲しいと思った時にあなたはいなかったじゃない……」
その言葉に私はあれ? と彼女のその言葉について、こめかみに指を当てて考える。もしかして……志狼さんとアマラって何か過去にあったのだろうか? というか二人の間に流れている空気というか、雰囲気がとてもではないけど敵同士のそれに見えないのだ。
なんていうか恋人同士の会話のようにも聞こえてしまうのだけど、気のせいだろうか?
「そうだね……僕は君の優しさに甘えていたかもしれない……でもそれだからって、これはないだろう?」
志狼さんは苦しそうな顔を浮かべるアマラを悲しそうな顔で見ながら……少し寂しそうなニュアンスで言葉を口にする。彼は少しだけ拳を見つめてから、間を置いて私の方へと振り向くと、榛色の目で見つめる。
「新居さん……手伝って欲しい。僕は彼女を止めなければいけない……彼女を殺してでも……」
私はその榛色の目が、とても真剣で強い意志を持っていることに気が付き、黙って頷くとゆっくりと立ち上がるために足に力を込める。
「私も……私も戦います……志狼さん……」
前世でもここで頑張らねばダメだ、と思うタイミングというのは数多く存在していた。勇者を守るために……絶望的な状況に身を投げ出した時、愛する人を救うために荒れ狂う竜の炎の中へと身を投じた時、世界を救うために……どんなに辛くて泣きたくて逃げ出したい時でも、立ち上がって前に進まなければいけない、そんなタイミング。
現世においてのタイミング、それは今だと思う。
私は震える脚を必死に動かして……立ち上がる。こんなにダメージを受けたのは現世では初めてだ。前世でもここまで痛めつけられたのは数えるほどしかないだろう。でも私は立ち上がる……それがこの世界に転生した自分に課せられた使命だと思うから、そして愛する人たちを守る力を持つ人間として、諦めるわけにはいかないから。
立ち上がって日本刀を肩に担ぐように構える私を見て……アマラが少しだけ、諦めにも似た表情で笑った気がした。自嘲気味の笑いというか……何かを諦めたような、そんな笑顔。
「ははは……もう……私は、私に残された道は数少ない……私は私を愛してくれた人のために、最後まで争うわ」
アマラは肩に突き刺さった小剣を無理矢理に引き抜く。血が肩口から噴き出し……彼女は苦痛に満ちた顔で悲鳴を上げて、引き抜いた剣を投げ捨てる。
「あああああっ……新居さん……貴女を恨むわ……だから、確実にここで貴女を殺す」
ぎらり……とアマラが私に獰猛すぎる笑顔を浮かべ……右手を大きく掲げる。それを見て志狼さんが彼女へと手を伸ばして叫ぶ。
「だめだアマラ! もう……やめてくれ!」
「いいえ、私はあの方への愛を……貫くのよ……もう貴方の愛は必要ないわ!」
大きく手を掲げたアマラの足元へ、巨大な魔法陣が出現する……何かを召喚する? 志狼さんはその様子を見て……ギリリと奥歯を噛み締める。
そんな中私は二人のやり取りを聞いて、ある事実に気がついた。
ちょっと待って、今『貴方の愛』って言ったか? んー? んー? 志狼さんとアマラは恋人同士か何かなのかな? するってーと彼に対してちょっとドキドキしたり、ちょっとそれっぽいメッセージ送りまくった私って……ちょっと痛い子なんじゃないの? 花も恥じらう女子高生、新居 灯さん的にちょっとショックなんですけど。
少しだけ頭が痛くなってきた私を置いてけぼりにしつつ、目の前の二人は睨み合っている。
アマラの周囲に魔素が恐ろしい勢いで集まっていく……彼女の肩口にできていた傷から、血が凄まじい勢いで噴き出して暴れる。
彼女の真紅の血液はそれ自体が意志を持っているかのように、何度も彼女自身の体から離れたがっているように……そしてまるで翼のように広がっていく。
私はその光景を見て、前世の記憶にある一つの言葉を喉の奥から搾り出す……人の身が扱うには禁忌とまで言われた伝説の魔王が開発した魔術。
「……紅血魔術……!」
その言葉に志狼さんが驚いたように私の顔を見て、そして再びアマラに視線を戻すが……彼女は紅血魔術で絞り出した体内の血液にその身を侵食されていくところだった。
「ああああああああああああっ!」
苦しみ悶えるアマラ……私の記憶では紅血魔術は体内にある血液を触媒として発動する魔術で、本来は人ならざる者が扱うような超級魔術に相当する。
この魔術を開発した魔王は、人の姿をしていたが人ならざる者に属する半神でもあり、無尽蔵に体内で血液を作り出すことでこの魔術をコントロールしていた、と言われている。
当然ながら人間の血液量は限界があるので、紅血魔術を完全な形で使用することはできず……人としてこの超級魔術を行使して生きていたのは前世では数人しかいなかった。
彼女は魔術の行使と引き換えに、足りない血液の補填として自らの命を精神を……肉体を凄まじい激痛と共に侵食されていくのだ。
「ア……アマラ……」
志狼さんが呆然とした顔で……目の前で苦しみ悶えるアマラを本当に悲しそうな顔で見つめている。二人にしかわからない思いがあるのだろう、肩が少し震えたように見える。
「いけません! 魔術の発動を中断させないと……! きゃあっ!」
私が恐ろしく集約している魔素に気がつき、志狼さんの腕に触れようとしたその瞬間、それまで膨大なエネルギーを発していた魔素の集約がピタリ、と止まると……私の体に凄まじい衝撃が加わり、私は後ろへと弾き飛ばされる。
「あ、新居……さん?」
いきなり凄まじい勢いで後ろへと吹き飛んでいった私の代わりに、志狼さんの視界には真紅の長く伸びる何かが写っている。
私を吹き飛ばした真紅の物体……いや液体だろうか? 粘液と固体の中間のような血液……『紅血』がアマラの肩口から伸びている。彼女は全身に血液の筋……肉体を侵食していく自らの血液が付着して、まるで全身を覆う刺青のような禍々しい輝きを放っている。
彼女は既に意識があるのかないのかわからないが……まるで操り人形のようにその場でふらふらと体を揺らしている。
「げはっ……」
私は口から血を軽く吐き出して悶える……凄まじい一撃だった。紅血魔術が存在するという知識は私にあるが、その魔術がどのような攻撃方法になるのか、はわかっていなかった。
前世で対処法を考えようと様々な文献を調べても、明確な答えがなかったのだ。正直言えばノエル・ノーランドとして生きている間にこの恐るべき魔術に出会わなかったのは奇跡のようなものなのだ。
何度も咳き込み、私は片手で紅血が衝突した腹部を押さえながら立ち上がる。この衝撃は前世で巨人の棍棒の直撃を受け止めた時くらい強烈だった。
しかし……紅血魔術は物理攻撃の類ではない、実体化に近いが血液を触媒にして魔素を集約して操る類のものらしく……私の魔法抵抗力が有効に働き、致命傷となることを防いでいる。
「とはいえ……猛烈に痛いことは痛いのよね……」
私はノロノロと対峙している二人の元へと歩き出す……私が攻撃で吹き飛ばされている間に、志狼さんとアマラの戦闘が開始されていた。
「やめてくれ……やめてくれえっ!」
銀色の狼獣人、狛江 アーネスト 志狼がその榛色の目から涙をこぼしながら必死に紅血による攻撃を避けている。
アマラはか細い体を震わせながら、全身に刻み込まれた紅血を展開して、必死に回避する狛江を追いかけ回す……アマラ自身の意思ではなく、魔素と一体化した血液が彼女の体を制御し、完全自動で眼前の敵を殲滅するために生き物のように蠢いていく。
それはまるで、大きく翼を広げた魔王のように、絶対的な圧力を持って襲いかかってくる。
「アマラ! 目を覚ましてくれ!」
必死に呼びかけてもアマラはその声に反応しようとせず、口を開いて狛江へ向かって紅血を弾丸のように射出していく。
そのあまりの速度に驚くものの狛江は壁や天井を蹴ってその攻撃を避けていく……着弾と同時に爆音と共に小規模な爆発を引き起こしていく。
腕や脚は必死に回避している狛江の動きに合わせようと、人間の関節の可動域を遥かに超えた方向へと無理やり動かされ、軋み骨が砕けていく嫌な音が響く。
それでも術師本人となったアマラは痛みによる悲鳴をあげることなくただ目の前の銀色の狼獣人を狙って、紅血を高速で振り回して攻撃を加え続ける。
口から吐き出した紅血の弾丸がついに狛江の肩口へと突き刺さる……肩を抑えて、地面へと落下する狛江を狙って、紅血が一筋伸びていく。
狛江の目にかわせない軌道の紅血が見え……彼は一瞬諦めにも似た気持ちに包まれる。そうか……ここで死ぬのか僕は……アマラごめん、君を止めることすらできないなんて。
狛江が目を閉じようとしたその瞬間、その伸びてきた紅血を後方から大きく跳躍してきた影が叩き落とす。
「ミカガミ流……大瀧!」
それは傷だらけになりながらも、強い意志の力を目に宿した新居 灯の渾身の一撃だった。
_(:3 」∠)_ ついでに憧憬もぶち壊し……
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