詠唱至上派の出現 ― ディルトン
学院の諮問会議室は、石壁に銀の紋章が張り付いた荘厳な空間だった。
議員席の中央、重厚な椅子に腰掛ける男は、歳月の重みをそのまま纏っていた。
ディルトン・ヴァヌス。詠唱至上派の最高権威。その名を聞けば学院の誰もが背筋を伸ばす。
彼の声は、空間を裁く刃のように響いた。
「詠唱省略は神霊への侮辱だ。秩序ある儀式を破壊する異端行為に他ならん!」
机を叩いたわけでもない。怒鳴ったわけでもない。
ただ、その言葉だけで室内の魔力紋が震えた。
魔術師というより、宗教裁判官の声だった。
ラクシア教授が椅子から立ち上がる。
瞳は怒りではなく、理性の輝きを宿している。
「彼は才気ある研究者です。現象を実証した。詠唱に頼らず媒質を操作したのです」
ディルトンは鼻で笑った。
冷たく、侮蔑を含んだ呼気。
「実証だと? 子供の悪戯に過ぎん。偶然の産物だ。記録を抹消しろ。若年の魔術暴走として処理すればよい」
ケイルは静かに立ち上がった。
胸の鼓動は冷え切っている。恐怖も怒りもない。
ただ、計算式のような冷静さが支配していた。
「偶然と断じるなら——再現実験を要求します」
会議室の空気が一瞬にして固まる。
魔術師たちの視線が一斉に彼へ注がれる。
無謀。挑発。愚行。
その全てを含んだ視線。
ディルトンの瞼がゆっくりと開く。
その奥に宿ったのは、怒りではなく深い軽蔑だった。
「再現、だと? 我々は神霊の祝福を受ける高位魔術師だ。儀式を数学のように扱う愚か者に説明する義務はない」
「説明を拒むのは、根拠がないからです」
ケイルは遮るように言った。
声は淡々としていた。恐れを知らない若者の鈍感ではなく、確信を持つ研究者の冷徹さ。
「詠唱は媒質への境界条件付与に過ぎません。現象を成立させたのは式ではなく——」
「黙れ!」
ディルトンの怒声が室内を裂いた。
壁の魔術紋が激しく脈動し、灯火が一瞬だけ青白く点滅する。
魔力そのものが彼の感情に反応したようだった。
「その冒涜的思考自体が危険なのだ! 魔術は聖性を持つ。魂を導く知! 数式の玩具ではない!」
長老の席にいる教授陣が互いに視線を交わす。
ざわつきが、抑えきれない波紋となって広がっていく。
ラクシア教授は鋭い声で切り返した。
「魔術が聖性を持つなら、なぜ暴走事故が起きるのですか。なぜ失敗を神霊の気分と片付けるのですか」
ディルトンの瞳が細くなる。
静かな怒りが、その奥で火種のように燃えた。
「研究者気取りの小娘が。儀式を理解したことなどない」
彼はゆっくり椅子から立ち上がる。
杖の先端に刻まれた紋章が微かに光る。
議員席の重圧そのものが、彼の背後に現れる幻影のようだった。
「この件は終わりだ。少年の記録は抹消する。二度と詠唱省略の戯言を口にするな」
ケイルは一歩前へ出た。
「それはあなたの権威のためですか。それとも——この世界の理論が崩壊することを恐れているのですか」
沈黙。
誰も息をしなかった。
会議室の空間は圧縮された鉛のように重い。
魔術師たちの顔に浮かぶのは震撼。憤怒。畏怖。
だが最も揺れていたのは、定説そのものだった。
ラクシアだけが静かに息を吐く。
(ああ……火種が、放り込まれてしまった)
この瞬間、詠唱至上派と新たな科学魔術の戦いは、ただの論争ではなく、学院という巨大なシステムそのものを揺さぶる闘争へと変質したのだった。




