初の小規模実験
魔術演習室は、古い石造りの壁に魔術紋が張り巡らされ、床には幾何学模様の魔法陣が埋め込まれている。
ケイルの周囲には数十名の生徒が輪を作って立ち、手慣れた様子で詠唱の吐息を整えていた。
「燃えよ——炎の精霊——」
反復練習の声がいくつも重なり、熱気が室内に充満する。魔術の基礎訓練。詠唱式に従い、掌の前に小さな火球を形成するだけのはずだ。
だがケイルは黙っていた。
彼の視線は床の魔法陣ではなく、空気の波紋に向けられている。僅かな温度差、魔力媒質の密度の揺れ。それらが一瞬だけ均衡を崩す。
(Φの局所安定点。温度差0.3。媒質の転移閾値は……ここだ)
詠唱も構文もなく、ケイルはただ片手を持ち上げる。
掌の中心に、紅の一点が瞬いた。
生徒たちが息を呑む。
「……は?」
「嘘だろ!? 詠唱してない!」
「おい見たか、光っただけだぞ……血統なしの雑種が?」
ざわめきは嫉妬と恐怖の混合だった。
魔術は血筋に依存するもの。詠唱は神霊との契約。
その常識をたった一つの赤光が破壊した。
空気が弾けるような乾いた音がして、火球はその場に留まった。
大きさは小指の爪ほど。だが制御された核のように安定している。暴走の兆候は皆無。
「……十分だ」
ケイルは指先をわずかにひねる。火球は消えた。
熱残留はほぼゼロ。媒質が余剰エネルギーを吸収し、中和したのだ。
演習室の奥。ラクシア教授はもともと半ば腕を組み、退屈げに見回していた。
だが今、彼女の表情は凍りついたまま変質している。驚愕が消え、代わりに研究者特有の強烈な興味が瞳の奥に灯っていた。
「君——何をした?」
声は震えていない。だが、抑えている何かが露骨に伝わる。
ケイルは肩をすくめた。
まるで理科実験の結果を報告するかのように平坦な口調で答える。
「式の意味を理解しただけです。媒質の熱平衡が崩れただけ」
ラクシアの口元がわずかに開く。
天才を見つけてしまった教授の顔。血統の呪縛に囚われた学院では滅多に見られない、生の知的興奮。
「……………………難問だ」
教授は息を吸い込み、瞳孔を大きく開いたまま告げる。
「後で研究室に来なさい。単なる偶然ではない。検証する必要がある」
周囲の生徒が怯え、遠巻きに見る視線。
嫉妬と嫌悪の囁きが聞こえてくる。
だがケイルは気にしなかった。火球の残熱すら無視して、ただ静かにノートへ指先を走らせる。
(媒質の応答は確かに存在する。次は振幅の保持時間と逸散率の測定だ)
魔術社会の信仰体系はその瞬間、ケイルという異物によって軋みを始めた。




