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異世界物理  作者: 南蛇井


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魔術式講義

 午前の光が高窓から差し込み、講義室の石壁に鈍い反射を落としていた。壁面を巡る魔術紋が淡い青に脈打ち、まるで教室自体が呼吸をしているようだ。

 ケイルは後列に腰を下ろし、羊皮紙のノートを開く。前世の癖で、つい余白に座標軸やエネルギー伝達の式を書き始めてしまう。


 ラクシア教授は赤い法衣をまとい、黒板の前に立った。指先が空をなぞると、魔力の粉塵が走り、象徴的な円陣が黒板上に浮かぶ。円の中央に古語が刻まれ、周囲の小円が衛星のように配置された。


「本日の課題は――詠唱式《火球召喚(Flamma Orbis)》」


 教授の声は澄んでいたが、どこか宗教儀式の司祭のようでもある。


「《燃えよ炎の精霊、我が掌に集え》」


 その一文だけが黒板に響く。

 学生たちは一斉に羊皮紙へ書き写し、姿勢を正した。式の核心は詠唱文と象徴図、ただそれだけ。熱量に関する指標も、火球の生成に必要な媒体も、一切は示されていない。


(……媒質がない。どこからエネルギーを得る?)


 ケイルは思わず眉を寄せた。

 初等量子力学、相転移、流体熱力学――どの観点からもこの「生成」は説明できない。外部場か、真空エネルギーか。もしくはこの世界特有のバックグラウンド魔力場が存在しているのか。


 隣席の生徒たちはすでに練習に入っていた。指先に力を込めると、掌の上で橙の火が弾け、小さな球体を形作る。

 ケイルの視界に青い残滓が散った。制御も安定性もない、ただ「祈れば出る」類の現象。


 彼の胸奥で違和感が膨張する。これは魔法ではなく――ただのブラックボックスだ。


 教授が黒板にチョークを置いた瞬間、ケイルは小声で漏らした。


「なぜ静止状態からエネルギーが湧く?……媒質か、バックグラウンド場が存在する?」


 講義室の空気が一拍遅れて揺れた。

 ラクシア教授の視線が鋭く跳ね、ケイルを射抜く。


「式は神霊との契約。理由を求める必要はない」


 その言葉は刃のように冷たかった。学生たちがざわめき、後列の何人かが振り向く。

 ケイルは怯まずに視線を上げた。


「理論のない制御は偶然です。現象は必ず原因を持つはず」


 声は低いが、芯は硬い。

 教授の唇がわずかに歪む。嘲笑にも似て、しかし怒りを隠した表情。


「――では、原因が理解できる世界に帰ればよい。ここは魔術の世界だ。理解するのではなく、従うのだ」


 静寂。

 ケイルは拳を握る。従うことが強制されるなら、なおさら反証を示さねばならない。


(ならば証明しよう。祈りではなく、理論で火を呼ぶ)


 石の床を伝う魔力脈動が、微弱な熱を帯びて足裏をくすぐった。

 ケイルの思考は急速に加速し、既存の魔術式の構造を解体し始めていた。円環配置、詠唱の波形、媒介となる魔力密度。

 この世界は盲目的信仰で動く。だがそれは裏返せば、探求の余地が無限にあるということだ。


 講義室のざわめきの奥で、ケイルの目だけが異様に鋭く光っていた。

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