血統紋章の崩壊 ― 誇りの数学化
アーカイブ室の奥、他の石板群とは明らかに異質な一枚があった。
封印樹脂の透明層の下、浅く刻まれた紋が微光を反射する。
バルキスはそれを見た瞬間、硬直した。
紋章――いや、構造式。
曲線は美術ではなく最小散逸経路。
家紋の尖塔は祖先の栄光ではなく位相固定点。
そして中央の輪は、奇跡の象徴ではなく安定解を保持するための拘束項。
彼は震える指で石板に触れかけ、途中で止まった。
目が吸い寄せられたのは、刻まれた注記だった。
“有効最適解を得るために、特定遺伝条件でΨを初期化せよ。”
瞬間、部屋の空気が冷え落ちた。
バルキスの背筋を真冬の砂漠風が通り抜けるかのような虚脱が走る。
ケイは言葉を選ばず、ただ事実を読み上げた。
冷たくはない。だが容赦のない温度だった。
「血統は魔力の才能ではない。
非線形媒質Ψの初期条件だ。」
語調は淡々。
反論を許すためではなく、逃避を許さない平坦さ。
「術式の安定領域が狭い場合、
設計者は遺伝的に安定点へ収束する種を選ぶ。
儀式や英雄の血脈じゃない。
最適化アルゴリズムの結果だ。」
言葉は刃物ではなかった。
だが論理は鋼だった。
抵抗の余地を与えないまま、静止した現実を押し出す。
バルキスは最初、首を振るだけだった。
それでも目は石板から離れない。
彼の祖が命を賭して守った証、
家の誇り、貴族としての存在理由――
すべてが数値に還元されていく。
「これは模倣だ……」
声は乾燥した砂を噛むようにかすれる。
「偶然だ。古代が我らを真似ただけだ。
先祖は奇跡を得た英雄だ。征戦と血の中で……」
彼の否定は祈りではない。
崩壊の最後の足場だった。
ケイは視線を逸らさず、同じ温度で続ける。
「適性に遺伝性があるなら、利用するのが合理的だ。
奇跡は工程だ。
英雄は最適化の副産物だ。」
一粒の砂が落ちる音ほど小さく、
しかし確実に胸腔を破るその一言。
バルキスの呼吸が崩れた。
彼は膝を落とした。
硬い床に吸い込まれた膝頭が鈍い音を立てる。
視界が揺れ、吐息に鉄の匂いが混ざる。
「我らの血は……英雄の証ではなく……」
淡く震える声、砕けた硝子のような不規則さ。
「ただの……条件変数か。」
その言葉は泣き声ではない。
誇りの遺骸を自分の手で埋葬する
貴族の慟哭だった。
誰も近づかない。
慰めも、反論も、視線すら与えられない。
ニアは拳を握り、視線を地に落とす。
アルノは唇を噛み、石板ではなく壁を見た。
ラクシアですら、静かに首を垂れた。
避けているのではない。
触れれば、自分の神話も崩れると理解してしまったから。
部屋の中心で、古代の数学は沈黙していた。
それが最も残酷な慰めであるかのように。




