式の読解 ― 魔術→数学への転倒
ケイの指先が投影式の空中端末を滑る。石板の断章で切断されていた線が、数値へと置換されると同時に連続体へ復元されていく。魔術紋様は象徴ではなく処理系だった。
端末上の式が、単純であるがゆえに異様な威圧感を放つ。
φ(r,t) = ∇·(λ∇Ψ) − αΨ
Ψ(t+Δt) = Ψ(t) + Σ(境界条件β)
ケイは深く息を吸い、手を止めずに言う。
「これは祈りでも血統でもない。
媒質φを整えるのは、魔力意思ではなく空間勾配の自動補正。
結果を決めるのは、個人の資質ではなく――境界だ。」
短い沈黙。研究班の全員が、式が意味するものを理解しきれずに立ち尽くす。
ラクシア教授は石板を見つめたまま呟いた。
「魔術は力を生む神秘ではなく、既に存在する場の偏差を修正する行為……。
生成ではなく、均衡調整。
しかも、その過程は――」
教授は指を伸ばし、投影された式の端をなぞる。
「解ける。
理論的に追える。
再現できる。」
その言葉は焚き火の灰を踏みつける足音のように、部屋に響いた。
一瞬、誰もが呼吸を忘れた。
副部長が震える声で抵抗する。
「でも……魔術は魂の対話だろう? 詠唱は——」
ケイは静かに遮った。
「詠唱は初期条件の設定に過ぎない。
術者の感情や精神を媒介にした境界値ベクトルの導入法だ。
古代式はそれすら排除している。
人間の不可測性を――消した。」
バルキスが顔色を失う。
彼の家系が代々守ってきた血統紋章。
英雄の証、血に宿る才能の象徴――。
それが数学的最適解のひとつに過ぎない可能性が、式の中に淡々と刻まれていた。
ラクシアは、わずかに震える声で告げた。
「魔術が学問に堕ちるのではない。
神秘が数学に転倒する。
理解した者の手で、神話は再現され、量産される。」
部屋の空気が凍り付く。
黒羽根の司祭団でもなく、詠唱派でもなく、学院の政治でもない。
人類そのものの神話構造を揺るがす“証拠”が、そこにあった。
ケイは端末を閉じ、石板を見下ろした。
その眼差しは恐れではなく、確信だった。
「奇跡は偶然ではない。
同じ条件が整えば、同じ結果が出る。
だったら――これは魔術じゃない。
科学だ。」
その瞬間、封印された断章が微かに発光したように見えた。
石板が返したのは賛同ではない。
理解者の出現に対する、静かな応答だった。




