断章との遭遇
空間の静寂を破るものは、ただ一つ。部屋中央に鎮座する透明樹脂の塔だった。厚み十数センチの層が何重にも折り重なり、内部に古代の石板束を凍結するように封じ込めている。光を吸わず、反射もせず、ただ視線を通過させる。まるで観察者を拒まないこと自体が、解析を前提にした意図のようだった。
ラクシアは息を飲む。石板一枚ごとに刻まれた紋様は、誰もが知る詠唱護符の流麗な曲線ではない。
第一印象は「断裂」だった。線は途中で切れ、角度を変え、曲率が唐突に跳ねる。だがよく見ると、不規則ではなく導かれている。視線は自然と一連の流れを追う。破綻ではなく、境界条件の切り替え。
「……祈祷ではないのか?」
副部長が囁く。祈りの文言がないことよりも、意味を持たない美的装飾が一切存在しないことに、彼は本能的な異物感を覚えたのだ。
ケイは答えず、携行端末を取り出した。光学スキャンを石板表面に沿わせると、紋様の輪郭が即座に幾何データへ変換され、空間に立体投影された。曲線の途中で演算が止まり、端末が警告を発する。
――値が無限大に発散。定義域の変更を要求。
「関数だ」
ケイが淡々と呟く。
紋様の走る軌跡を指で追う。ある箇所で曲線は突然折れ、別の線が滑らかに接続する。その切り替え位置に刻まれた点群は、祈祷書にある象徴ではない。境界条件を記すマーカーだ。
「ここで偏微分。流束を規定している」
端末に打ち込む指が止まらない。ケイは余白に簡易式を描き始めた。
∂Ψ/∂t = ∇·(λ∇Ψ) − αΨ
「媒質φに依存しない。場そのものを支配対象にしている。
古代式は詠唱を媒介にせず、初期条件を数理的に固定することで魔術を生成していた」
研究班の背筋が伸びる。誰も言葉を発しない。
祈りが力を呼ぶのではなく、条件が現象を決定する。
それは魔術を「才能」から引き剥がし、「手法」へと堕とす思想だった。
ラクシアが唇を噛む。
「術者の個性を排して、ただ計算へ……。神秘を、完全に否定するつもりだったのか」
ケイは首を横に振る。視線は投影された紋様の中点へ。
「否定じゃない。神秘を再現可能な領域へ押し下げた。
誰が使っても同じ結果が出るなら、それは――魔術ではなく学問だ」
部屋の空気が、わずかに変わったように感じられた。
静寂の遮断空間は、外界の魔力を拒絶している。
だが知識だけは侵入を許す。
そしてその知識は、確かに脈動していた。




