感情の分岐と不気味さ
空洞の中心で、誰かの息が引きつった。
「……詠唱も……紋章もない」
声は砂粒のようにかすれ、岩壁に吸い込まれた。
震える指がリング状装置を示す。
「これじゃ……誰にでも扱える。血統も、神の契約も要らない……」
その言葉は、恐怖の震え以上に重かった。
特権の崩壊。
魔術社会を保ってきた階層性が、無造作に切断される未来の予告。
誰かが否定しようと口を開いたが、声は出なかった。
遺跡の静寂は、反論を許さない。
胸の鼓動は、まだ均一に揃ったままだ。
個の意志は装置の律動へ従属し、個人が限りなく薄くなる。
バルキスは一歩だけ退いた。
その顔には怒りでも恐怖でもない、別種の硬さ——
嫌悪が沈殿していた。
貴族に生まれ、魔術は血統の証であり、社会的身分の裏付けである。
それが数式と境界条件へ還元されるなら、
「家柄」とは何だ。
誇りは、ただの初期値に過ぎなかったのか。
彼は唇を噛み、声を押し殺した。
反論すれば嘲笑になる。
沈黙は、まだ誇りの形を保てる唯一の壁だ。
一方でケイは、全く別の方向へ落ちていく。
機器の停止も、心拍の同期も、負の位相調律も——
それらすべてを前提条件として受け入れていた。
彼の目は炉心へ向けられ、そこに恐怖ではなく秩序を見ていた。
「誰でも扱えるなら科学だ」
声は囁きでも叫びでもなく、報告のように平坦だった。
「奇跡は……条件付きの現象だった」
ラクシアは思わず息を止めた。
ケイの言葉は、古代文明が追いかけた思想の核心に触れた。
神秘を均質化し、再現性を要求した者たちの哲学。
それは文明を築き、同時に都市をひとつ焼き殺した理念でもある。
黒焦げのリングは沈黙したまま、
だがそこに刻まれた座標変換式は、どこまでも冷徹だった。
祈りも血筋も知らない。
ただ入力された媒質を計測し、均衡点へ押し戻す。
それだけの機械的意志。
ケイの胸では、同期した鼓動がわずかに外れ始めていた。
他者との同調が破れ、個としての拍動を取り戻す。
昂揚は静かだった。
恐怖を持たない者だけが踏み出せる一歩が、そこにあった。
部員たちはまだ息を潜めていた。
装置は呼吸のように脈打ち、都市の残骸は死を拒む。
その中心で、思想だけが真逆へ分岐した。
崇拝か、科学か。
特権の防壁か、知識の解放か。
遺跡は何も語らない。
ただ、人間の心を均衡から外す。




