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異世界物理  作者: 南蛇井


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クライマックスの予兆

演習ホールは石造りのアーチに覆われ、平時は晴れの儀式のために用いられる。

その日は違った。

観客席は低いざわめきで満ち、空気は鉄粉のように重い。

詠唱派の若者たちは腕を組み、貴族階級は上層の桟敷席から見下ろし、

灰燼会の黒い外套を纏う者たちは言葉を持たず、ただ観測している。


正面の壇上に設置された巨大魔術黒板。

ケイはそこに向かい、背筋を伸ばした。

魔力灯が彼の影を細く引き伸ばす。

筆記具は魔杖ではなく、ただの白墨。


彼は振り返らずに、式を書く。

Φ(x,t) の文字列が黒板の中央に降りる。

続けて安定条件 κ > 0、境界 ∂Ω における熱流束ゼロ。

その筆跡は淡々として、祈りの詠唱とは無縁だった。


「——ここから始める」


ケイがそう告げたとき、観客席の空気がわずかに揺れた。

嘲笑が小さく散る。


「式?」「魔術は言葉だ」「神霊は数学に応答しない」


貴族の娘が扇を打ち鳴らし、学院新聞の記者が羽ペンを走らせる。

灰燼会の面々は沈黙のまま、瞳孔の奥で色のない炎を燃やしていた。


ケイは振り返り、観衆の視線を正面から受け止める。

声は低いが、震えていない。


「誰でも検証できる。

魔術が偶然ではなく、媒質と条件の応答であることを」


ホールの天井の魔力灯が微かに明滅し、

魔術循環導管の脈動が床面に伝わる。

全員の足元に存在するエネルギーの流れが、今だけは異質に思えた。


ラクシア教授は最前列の席に立ち、誰よりも静かに彼を見守る。

その眼差しには恐怖も歓喜もなく、ただ一点の観測者の覚悟。


ディルトンは白い指で杖頭を叩く。

怒りか嘲笑か、その境界は曖昧だった。

だが彼の側から発せられる空気には、一片の疑念が混ざっていた。


ケイは白墨を置き、壇上の中心に立った。

彼の背後には、黒板に並ぶ数式と静かなΦ。

目の前には、信仰と権威と利権が渦巻く渦。


審査官が声を張る。

「実験開始。記録官配置済み。魔力流束検出器稼働。

被験者ケイル・リヒトナー、第一段階へ——」


その瞬間、ホールに降り立った沈黙は、

もはや恐怖ではなかった。

誰もが「何かが変わる」瞬間の匂いを嗅ぎ取っていた。


詠唱派はなお嘲笑し、貴族は依然傍観し、灰燼会は影で蠢く。

だが——この夜明けを否定できる者は、誰一人いなかった。


魔術の革命は、静かな白墨の一線から始まる。

式は描かれ、観測は行われる。

そして世界は、結果に直面するのだ。

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