試験の圧力
研究室の空気は、音のない重圧で満たされていた。
分光器の赤いランプだけが脈打ち、壁面に影を刻む。
誰も口を開かない。
息さえ、遠慮するように細い。
机上には申請書の控えと、ケイが書き散らした式の断片。
Φの偏微分、境界条件、安定係数κ。
そのどれもが、今や一枚の盾にも、一振りの刃にもなり得る。
「許可が下りた」
ラクシア教授の声が空気を断った。
静かな一言。だが研究班の背骨を直接叩いたような衝撃が走る。
アルノが拳を握りしめ、ニアの肩が跳ねた。
バルキスは硬直したまま、机の端に視線を落とす。
教授は続けた。
「ただし条件は学院側が定める。外部審査官は王国研究院。観客は百名以上。失敗した場合——」
そこで言葉を切り、ケイを真っ直ぐに見据える。
「学会は君を葬る」
その声音は冷たい宣告でも、脅迫でもなかった。
ただ事実を読み上げる数学者の口調。
最善と最悪のシミュレーションを両方提示したうえで、数字を置く。その種の静かな声。
アルノが吐き捨てるように呟いた。
「公開だぞ?詠唱派に囲まれた中でやらせるってことだ…!」
ニアは震える指でケイの袖を掴み、泣きそうな眼を持ち上げた。
「あなたの式は正しい。でも……でも理解しない人が触れると、また——」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。
恐怖でも疑問でもなく、信じているからこその痛みが喉を塞いでいた。
バルキスは沈黙のまま椅子を立ち、壁際の防壁実験の残骸を見つめる。
彼は戦士であり貴族の子弟だ。
護るべきものが揺らぐ恐怖を知っている。
その男でさえ、今は言葉を失っていた。
ケイは視線を教授へ戻した。
「成功すれば、計測値が証拠になります」
まるで温度計の読取誤差について話しているかのような淡々さだった。
ラクシアの唇が僅かに引き攣る。怒りではない。期待でもない。
「それで十分だと、君は思うのか?」
「思います。詠唱は感覚依存。Φの制御は条件依存。
感覚は争えるが、条件は争えない」
教授の眼光が鋭くなった。
その奥で、長年研究者を食い潰してきた問いが形を変える——
この少年は破壊者か、改革者か。
静寂の中、彼女は長く息を吐いた。
「ならば、賭けよう。私の職位も名誉も、そして君の未来もだ。
ただ一度の実験で世界を変えられるかどうか、見せてみろ」
告げると同時に、研究室が再び呼吸を始めた。
空気が動き、椅子が軋み、誰かが無意識に机を握り締めた。
ケイは短く頷いた。
恐れも昂揚もない。
ただ一点、数式の中心へ向けられた瞳。
「再現性は、真理の最低条件です」
その言葉は小さかったが、研究班全員の心に刻まれた。
これは戦いではない。検証だ。
だが、検証が戦争よりも残酷であることを、まだ彼らは知らなかった。




