【黒の虚空】
落下でも浮遊でもない。
ただ、下も上も存在しない何かのなかに、意識だけが漂っていた。
慧一はまず、呼吸を確認しようとした。
胸郭の膨張――ない。肺の圧力――ない。
そもそも身体という境界が曖昧だった。
暗闇。
いや、それすら観測できているのか怪しい。
色という概念は光の反射の結果であり、光がなければ定義できない。
しかし、この虚空は光の欠如ではなく――意味の欠如だった。
時間も消えていた。
一秒という単位は振り子か振動数がなければ成立しない。
だがここには、振動源が存在しない。
ゆえに「過去」「未来」が連続する段階も認識できなかった。
哲学ではなく、冷徹な理屈が脳裏に浮かぶ。
観測者が存在しない場では、物理法則は定義できない。
思考した瞬間、その言葉だけが浮かび上がり、虚空に波紋を落とす。
波紋は広がり、やがて反転し――自己同一性だけが核として残った。
慧一はそこに縋り付く。
「俺は木戸慧一。物理研究部長。大学四年。…そうだ、事故の――」
名を思い出した瞬間、“何か”が応答する。
視界に淡い線が灯った。
直線、円弧、分岐。
それらが次第に結節点を形成し、回路のような幾何学的構造体へと変貌していく。
黄金比を基調にした螺旋。
六角格子のフラクタル。
対称性破れを孕んだ放射状の紋。
それらは物理の数式ではなく、魔術式の回路として収束していく。
慧一は理解する。
この空間は定数を要求している。
観測者としての彼に――境界条件を与えろと。
音も熱も質量もない世界で、彼の思考だけが波源となり、形を描く。
かつて講義で板書したマクスウェル方程式が浮かぶ。
磁束密度、電場の回転、エネルギーの流束が交差する。
その線は――魔法陣の紋様と重なった。
「これは…物理じゃない。だが、物理でもある」
黒の虚空が震える。
幾何学的回路が彼を包み込み、視界が再び光へと向かう。
物理法則の崩壊、その瓦礫から新たな体系が芽吹く。
慧一は知らず、異世界の初期条件に自らの思考で答えを提示していた。
そして、光は開く――魔術の世界へ。




