ケイの準備
アルノの詠唱が空気を震わせる中、ケイは微動だにしない。
彼の視界には、魔力線でも霊的象徴でもなく――流体の地形が広がっていた。
観客には透明な空間にしか見えない。
だが彼には、圧力野の凹凸が可視化されていた。
わずかな温度差が作る渦。
アルノの詠唱に伴う魔力振動が生む干渉面。
その交差点に生じたサドル点は、力が集まりながらも逃げ場を持たない不安定な鞍型の領域。
「ここだ」
心の中だけで呟く。
熱でも霊でもない――媒質Φの局所歪み。
魔術式は詠唱で操作するものではない。
空間を正しい方向へ撫でるだけで、媒質はエネルギーの低い安定点へ落ち込む。
ケイは息を吸い、右手の稜線を水平に滑らせた。
それだけだった。
指も曲げない。
陣を描きもしない。
魔力を放出する輝きもない。
ただ、空気の流れが一瞬だけ停止した。
観客は気づかない。
アルノも気づかない。
だがケイの内側で、媒質Φが砂利道から水面へと変わるように滑らかに移行した。
温度勾配ΔTがゼロへ収束し、裏に潜む圧力谷が露出する。
そこは、空間が自然に内側へ落ち込もうとする斜面。
力を与える必要はない。
ただ存在を許せばいい。
「強制加速は不要。落下運動で十分だ」
詠唱派の常識では、魔力とは霊的力を注ぎ込んで形を保つものだった。
だがケイにとって魔力は、仕事をさせる必要のない場だった。
高い位置にある水が低い位置へ流れるように。
物が地面へ落ちるように。
媒質Φも、放っておけば一番楽な軌道を選ぶ。
右手の軌跡はただの水平線。
しかしその下に、圧力差ΔPの刃が形成される。
音も光も伴わない。
風でも火でもない。
空間そのものが鋭利な形状へ折り畳まれた。
観客の脳は理解を拒む。
魔力は見えず、詠唱もない。
式も印も描かれない。
ただ、何かがそこに存在する。
ケイの瞳は静かだった。
この世界の魔術師が何百年も神聖視してきた儀式のすべてを、
彼はひとつの思考で打ち捨てていた。
「物理に従えば、余分なものはいらない」
そして、彼は初めて戦闘の姿勢を取った。




