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313 赤い記憶②


 夢の世界は、アベルさんが九個目のアルヘオ文字を取得したところで変化を迎えた。

 その頃には何度もタロットの夢を見ていたようで、バフォメットの名前をこぼしたり、不吉な塔や老人の絵、あれはなんなんだと魘されるようになっていた。

 

 そうなれば当然、限界は来る。

 アベルさんは父親に相談し、幽閉を受け入れることになった。

 誰にも別れを告げることも出来ず、アベルさんは危険な伝染病にかかったということになり、離れに厳重に隔離されることになった。

 

 当然、母親とも親戚とも、側近や友達とも会えない。

 父親は大切に扱ってくれるが、それは家族の愛情というだけではなく、どこか爆発物でも扱うような怯えた態度に変わってきていた。

 前は頻繁に遊びに行っていた街にも出られなくなり、いつの間にか窓には厳重な格子がはめられた。

 文字を研究できないようにか、書物も筆記具も与えられなかった。

 しかし自分自身に怯えていたアベルさんは、その境遇を甘んじて受け入れているようだった。

 

 そうして一人静かに、ただただ生きていた時。

 

 ──月の無い晩、アベルさんの部屋のベランダに、フードを被った男が現れた。

 

「だっ、誰だ……!?」

 

 その男に気づいたアベルさんが警戒の声を発する。

 が、フードの男は「しー」と指で静かにと指示し、不思議な刃物で格子を撫でるように切って捨てると、するりと室内に侵入してきた。

 

「ひっ、人を……むぐっ」

「大丈夫、私はあなたの敵ではありません」

「……!?」

「お困りでしょう。助けに参りました」

 

 そう丁寧な口調で言った男はフードを下ろした。

 現れた中年の男は黒髪のくせ毛で、優しげなタレ目をしている。

 

「誰だ……?」

「名乗るほどのものでは。ただの魔術師です。風の噂で、幽閉されたお方がいると聞きましてね」

「……!?」

「そんなに警戒しないでください。私はあなたの味方です」

 

 ニコリと笑った男が、指輪をはめた指をピンと立てる。

 すると──その指輪に刻まれた文字が淡く光った。

 アレフの文字だ。

 それに驚く間もなく、アベルさんの体を優しくて温かい風がふわりと取り巻いた。

 温泉に浸かっているようなぽかぽかとした感覚に、思わず握っていた拳が開いていく。

 

 その様子を見た男が「ね? 私は貴方を害したりしません」と首を傾げた。

 

「あの、……一体?」

「不思議な現象に、お困りではないですか」

「!」

「この“文字”を知っていらっしゃるでしょう。さらに、もしかしたら“魔法陣”も? そして扱いかねて困っている」

 

 ズバズバとそう言われて、幼いアベルさんは必死に「知らない」と首を横に振った。

 しかしフードの男はアベルさんの肩を優しく叩いた。

 

「隠さずともいいのです。恐れることは無い。ほら、この指輪だって“文字”を使っていますが、人の体を優しく温めるだけの道具です」

「……」

「あの格子も壊してしまいましたが、あとで“文字”で直してから帰りますよ。あなたも同じようにすれば、こっそりここを抜け出て遊びに行き、帰ってくることが出来ますよ」

「……っ」

「逆に……それすらできないのでは、とても心配です。“文字”は強力なものですから、しっかり練習して扱いをマスターしなければ……」

 

 男はいかにも憂いるように首を振った。

 

「暴走して人を傷つけかねません。……もし“文字”だけでなく“魔法陣”の方を知っていたら、国を滅ぼしてもおかしくはない」

「!」

「ね。ですから恐れるのではなく、練習してモノにすることをオススメしますよ」

「……」

「一緒に練習しませんか? 私にも息子がいるのですがね、もう文字をすっかり使いこなしていますよ」

「え、……」

 

 言うだけ言って、男は風のように去っていった。

 

 ……そんな出来事があって、幼いアベルさんが影響されないはずがない。

 度々訪れる男に心を許すようになり、恐怖を克服するという名目でアルヘオ文字の練習を始めたのだ。

 

 初めはアレフで風を。

 次にヴァヴで土を。

 他の文字で炎を、光を、闇を、小さく小さく操って練習するようになった。

 常に室内に幽閉されているアベルさんは、魔力を指先に纏わせて空間に文字を書いた。

 そうして、誰に気づかれることも無く上達していった。

 

 フードの男は時々忍んできて、アベルさんに魔術を教えた。

 恐るべき“魔法陣”はタロットと言う名前だということ、どんな絵柄なのかは伝わっていないが、こんな名前のものがあるらしいという微かな情報も教えてきた。

 アベルさんは流石にそれを知っていることは明かさなかったが、自分の中にあるタロットの絵柄とフードの男の知識とを結びつけていった。

 

 男は時に息子だという彼そっくりの子供を連れてきて、遊ぶようにして三人で文字を使った。

 

「わあ……! アベル様、とってもじょうずですね!」

「そ、そうかな……君の方が上手だ」

 

 フードの男の息子は、人懐っこそうな笑みでアベルさんに笑いかけた。

 人に飢えていたアベルさんはそれが嬉しくてしょうがなく、また、一人っ子であったためかその子が可愛くて仕方なかったようだ。

 一方、俯瞰して見ている私は違和感を感じていた。

 フードの男はアベルさんを異様に可愛がり、また贔屓していたのだ。

 実の息子を無視してアベルさんに話しかけることもある。

 しかし浮かれているアベルさんはそのことにあまり気づかず、知識を得られることを嬉しいと思うだけだったようだ。

 そうして擬似親子のようになった彼らは、四六時中、こっそりと集まるようになった。

 

 そうして、また冬がやってきた。

 

 その頃には……アベルさんはアルヘオ文字をかなり使いこなし、こっそり離れを出て町に行ったり、本邸に忍んで父や母の姿を遠くから眺めたりと、自由に動けるようになっていた。

 

 相変わらず女の泣き声は聞こえたし、不可解な夢は見た。

 タロットの夢は増えていくばかり。

 しかし周囲の大人では手も足も出ないような魔法の力を得たアベルさんは、かなり大胆に動くようになっていた。

 

 だからだろうか。

 

 ──屋敷に恐ろしい賊の声が響き渡った時、アベルさんは逃げるのではなく、そちらの方向へ向かって行ったのだ。

 

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