312 赤い記憶
次に見えてきたのは、ベッドの天蓋を下から見るようなアングルだった。
やはり体は幼いアベルさんのものだ。
ベッドのなかで飛び起きたアベルさんは、荒く息をして震える手を持ち上げた。
「ゆ、夢……?なんだあの夢……っ、ひ、人が……っ」
そう呟いて震えているアベルさんがどんな夢を見たのかはすぐに分かった。
もつれる足でベッドから降りたアベルさんが書き物机に駆け寄る。
そして紙とペンを引き出しから取り出すと、アレフではなく「ヴァヴ」の文字を書いたのだ。
すると文字は微かに発光し始め、紙はみるみる歪な立方体になり、カチコチに固まった。
それを見てアベルさんがペンを取り落とし、「ひっ」と後ずさる。
「な、なんだこれ。こんなもの知らないのに、なんで夢に出てくるんだ……!?」
怯えたアベルさんが後ずさる。
きっとアレフの文字が嵐の夢を見せたように、ヴァヴも恐ろしい夢を見せたのだろう。
がたんとアベルさんがベッドサイドの机にぶつかり、置かれていた花瓶が落ちて大きな音を立てた。
その音を聞き付けたのは、父親のルシオだ。
「……っ!!」
机の上にある歪な立体とそこに輝く文字を見て、父親が息を飲んだ。
「父上……」
「アベル、これはお前がやったのか」
きつい様子で問われたアベルさんが涙目で頷き返す。
すると父親は「ああ……」と頭を掻きむしった。
「やはり、お前は、そうなのだな……」
「父上?」
「アベル、よく聞きなさい」
ふらりと顔を上げた父親が泣きそうな顔をする。
「この文字のことは忘れて、いつも通りに振る舞うんだ」
「は、はい……」
「そして」
項垂れるようにして肩を掴まれる。
「もしも“女の泣き声”がしたら、絶対に聞こえないふりをするんだ」
「お、女の声……?」
「絶対にだ」
鬼気迫るような様子で父親が言うので、アベルさんは怯えたようにこくこくと頷いた。
そんなアベルさんをベッドに座らせると、父親は講義をするように淡々と言葉を紡いだ。
「この文字はね、古代に使われていたものらしい。私もあの小箱に納められていたもの以外はほとんど知らない」
「そうなのですか……?」
「そうだよ。先代もそうだった。……だが、先々代は違った」
窓の外を眺めながら父親は続ける。
季節は春のようで、窓の外には緑が生い茂り小鳥が飛び交っていた。
しかし室内の空気は相反するように重い。
「先々代は、お前と同じように不思議な夢を見る人だった。夢を見るようになったのは大人になってからだそうだが、その夢に出てくる文字は必ず不思議な力を持っていたらしい」
「……」
「そしてね。ある時……ふと言ったんだそうだ。“女性が泣いている”と」
「女性が……?」
「ああ。それから先々代は取り憑かれたように文字を研究するようになった。決して世間に知られてはならないと一族の当主に伝えられてきた文字をだ」
「……どうして、知られてはならないのですか?」
「それは言えない。ただひとつ言えるとすれば、あの文字は崇高なものでありつつ、“災いを呼ぶ”とということだけだ。私たちの一族にはたびたび文字を知るものが現れ、そして災いを呼んだ」
重々しく沈黙が流れる。
固唾を飲んで見守っていると、アベルさんが「先々代は、僕の曾お祖父様は、どうなったのですか?」と聞いた。
すると父親は首を横に振った。
「魔力暴走を起こして被害を出した。それから姿を消してしまったんだよ」
「暴走……?」
「先々代の妻は、表向きには事故死したことになっている。しかし実際は大規模な魔力暴走を起こした先々代のせいで死んだ」
「……!」
「先々代は生き延びた。だが廃人のようになってしまって、その後、忽然と姿を消してしまったんだ」
初めて知る事実だったのだろう。アベルさんが呆然とする。
「先々代はね……白に近い髪色をしていた。そしてお前ほどではないが、赤っぽい赤茶の瞳をしていたそうだ。それもまた一族の口伝で伝えられてきたものだ。“災い”を呼ぶ特徴だと。その特徴を持つ者が産まれたら、必ず髪を染めるようにとも言い伝えられてきた」
「そんな……」
「でもね、恐れることは無い」
父親はアベルさんの頭を、震える手で撫でた。
「文字を使わなければいい。知ろうとしなければいいんだ。おかしな声が聞こえても無視しなさい。そうすれば、危ないことなど何も無いのだから」
「は、はい……」
「でもね」
暗転する直前、父親は泣きそうな顔で言った。
「もし、また夢を見たら……必ず、私にだけは教えなさい」
その顔は、まるで悲壮な覚悟を決めたような顔だった。
──暗転する。
少し長い沈黙の後、視界に光が戻った。
季節は秋になったようだ。
アベルさんの視界では、母親が編み物をしていた。
「アベル、手袋は何色がいい?」
「うーん……どうしようかな」
秋薔薇の生い茂る庭で二人がそんな会話をしている。すると母親によく似た女性がやってきて、「アベルは肌が白いから、今年流行りの青がいいわ」と会話に参加した。
母親の姉妹らしきその人──叔母と呼ばれていた──が使用人に毛糸や布を持ってこさせて、あれこれとアベルさんにあてがう。
アベルさんは「もう、どれでも同じだって」と少年らしく嫌がったけれど、くすぐったそうでもあった。
するとその様子を見ていた側近らしき少年が会話に加わる。
軽くからかわれたアベルさんが怒ったふりをして側近をつつき、それを見て母親が笑った。
叔母も笑い、それからまたアベルさんは着せ替え人形のようにあれこれと試されていた。
何気ない家族のひとときだ。
楽しげな空気しか感じ取れなかったのだが……私はふと、館の窓から父親がこちらを見下ろしていることに気がついた。
その顔は見間違いかと思うほど固く冷たい雰囲気で、思わず心の中で目を見開く。
が、アベルさんは気づいていない……ふりをしていた。
しかし握りしめた拳から、私はアベルさんが恐怖心を感じているのだと感じ取った。
場面が夜になる。
自室で一人になったアベルさんは疲れたように項垂れて椅子に座った。
「……もう、七個目だ」
ぽつりと呟いたその声は誰に拾われることも無く消える。
夢に現れるアルヘオ文字が七つめになったのだろう。
そして、問題はそれだけではないことも分かる。
「なんなんだ、あの魔法陣は……!?」
どうやら夢にはタロットも現れ始めているようだ。
項垂れるアベルさんの恐怖心をひしひしと感じ取っていると、どこからか女性の泣き声が聞こえてきた。
「(この声……私も一瞬聞いた声だ)」
わんわんと頭の中に響くようなそれは、前に聞いた時よりも大きいように思える。
その悲痛な声が聞こえたのか、アベルさんが耳をばっと押さえた。
そうして椅子の上で小さくなって蹲り、「聞こえない、聞こえない、聞こえない……っ」と必死に呟いた。
夜が更けていく。
その間も、ずっとアベルさんは蹲って苦しんでいた。
その様子からして、アベルさんはこのことを父親に相談していないようだった。
無理もない。
話の流れ、そしてあの顔からして、父親は進展があればすぐさまアベルさんを幽閉しようとしている様子だった。
きっと先々代のように家族を巻き添えにした事故が起こるのを防ぎたいのだろう。
それは理解出来るが、永遠の幽閉など、当人からしたら死刑宣告と変わらないはずだ。
一人っ子のようだから、幽閉はジャーヴィス家の断絶を意味するかもしれない。
それでも父親は安全と秘匿を選ぶだろうことが、雰囲気から感じ取れた。
だが──私は未来を知っている。
アベルさんは、前代未聞の魔力暴走を起こすのだ。




