310 誰かの太陽
キイ、キイ。
そんな風に木が軋む音が聞こえて意識が浮上した。
「んん………?」
眠っていた意識がだんだん覚醒し、薄く目を開ける。
確か、小舟に乗っていたら意識が遠くなって。
そこまで思い出してすぐに、傍らにあるはずの温度がないことに気づいた。
「アベルさん?」
ハッとして顔を上げるが、小舟には私と骸骨の船頭しか乗っていない。
それを確認すると同時に、小舟が小さな桟橋に横付けされる。
船頭は何を言うでもなく黙って立っていた。
「降りろってことだよね……」
恐る恐る船頭の横を通り過ぎ、うんしょと船のへりを跨いで上陸する。
上がった場所は相変わらず地下世界で、そこにぽっかりと開いた横穴の入口のような場所だった。
地下なのに妙に明るい。
「ん……?」
見れば、洞窟の中にキラキラとしたものが散らばったり埋まったりしている。それが微かな光を発しているのだ。
まるでおとぎ話に出てくる、竜が守る財宝の洞窟のよう。
どこか幻想的な風景を醸し出しているそれらに少しだけワクワクして、私はそれを近くでよく見ようとして。
絶句した。
「は」
洞窟の入口、一番近い場所に落ちているもの。
それは見間違いでなければ、ぐしゃぐしゃになった──機械のパーツの一部だった。
「………ねじに、……これはディスプレイの破片?」
意味がわからないが、嫌な予感にザワリと首筋の産毛が総立つ。
他の破片を見てみれば、それはパソコンのパーツであったり、なにかの基板であったり、ボールペンの欠片だったりした。
それらがまるで鉱石のように洞窟に散らばっている。
ともすれば滑稽なそれらを見てなぜ顔を青くするのかといえば、答えはひとつしかない。
「どうしてここにこんなものがあるの……!?」
思わず後ずさる。
無いはずのものがあるというのは気持ちが悪くて、誰かの意図を感じて、不安になる。
特に現代社会、日本に溢れていた便利な道具達は私にとって忌まわしい過去の象徴でしかない。
近づくのも嫌で湖の方を振り返るが、桟橋からは船頭も小舟も消えていた。
一刻も早くここを抜け出したい。
が、道はここにしかない。
少し迷った末に洞窟の中へ足を踏み入れた。
しかし、うっかり足を取られて壁にぶつかる。
機械の破片が輝きながらぱらぱらと落ちた。
「……っ」
場に満ち満ちた「悪意」に堪らず走った。
キラキラと宝石のように輝く破片たちから逃れたくて走った。
「アベルさん、どこですか! ……っ、ヴィル兄様、オルリス兄様……っ」
助けを求めて走っても洞窟に終わりはない。
微かな光も見えなくて、これはなにかの罠なのでは無いかと泣きそうになった。
妙に情緒が安定しなくて、あっという間に心が悲鳴をあげる。
そうだ、飛行具で一気に飛んで抜けてしまおう。
そう思い「ザイン」を唱えて道具を召喚する。
微かな光とともに物体が現れ、棒が手に触れて……しかしまた私は小さく悲鳴をあげた。
召喚したのは、翼を備えた立派な飛行具ではなく。
日本の学校によくあるような、ただの古びた竹箒だった。
それを見て思い出す。
魔法使いや魔女は箒で自由に空を飛べるけど、前世ではそんなことは出来なかったこと。
あの世界に魔法や魔術、夢なんてものは何も無かったこと。
「コニー、お父様お母様、……っ誰か……」
役に立たない箒を手放して、また逃げる。
悪夢のような洞窟の中を、思いつく限りの頼りになる人の名前を呼んで走る。
早くここを抜け出さないとと頭のどこかが叫んでいた。
まるで不思議な穴の中に落ちていく“アリス”のように、なすすべも無く一方向へ進まされる。
側近たちの名前を呼び、ローリエ様、レティシア様、イヴァン様、フレッジ様、レイ先生、と夜明け団員の名前を呼ぶ。
こんな場所では応えがないのは当然なのに……まるでそれが、彼らが「架空の人物」である証明のように思えて仕方なくなり、足が震えてくる。
もしかして、私は長い長い夢を見ているだけなのではないか。
彼らは画面の向こうの「キャラクター」で、私はただの疲れきった会社員なのではないか。
心の中に眠っていた不安がむくりと起き上がってくる。
その考えを振り払うように、転ぶように逃げるように進んでいると、遠くの方にチカッと光るものが見えた。
ようやく出口だと安堵の息をつき、そこを目指していく。
しかし、洞窟の終わりに見えたものは──オフィスビルの一画だった。
希望の光に見えたものは、明け方まで付けっぱなしになっている蛍光灯の光。
気味の悪い洞窟から抜け出した先は……死ぬ直前まで働いていた職場。
目を見開いていると、真後ろから心臓が痛くなるような怒声が飛んできた。
「おい一条ッ! なんでこれの処理終わってないんだ!?」
「ひぁっ」
突き飛ばすような声に驚いて前につんのめると、それまで立っていた洞窟はすうっと消えてしまった。
たたらを踏んでいると、また怒声を浴びせられる。
「担当がぶっ倒れた業務はお前が率先してやれって言ったよなぁ。中途なんだからそんくらいやってやる気を見せろよ。朝までに必ず終わらせろ!!」
「あっ、は、はい……っ、?」
思わず返事をしてしまい、遅れて思い出す。
一条……「一条夏樹」は前世の自分の名前で、この男は上司だった男だ。
話しかけられる時は仕事を渡される時か怒られる時だけで、最後の方は声を聞くだけで目眩がしていたことを思い出す。
「おい聞いてるのか。これだからお前みたいのは……──」
「……」
そうだ。
最初に入ったブラック企業をなんとか脱出した後、中途入社したところも運悪くブラックだったんだ、ということも思い出した。
そこでは「中途入社の若い女」ということで、最初から「やる気のない腰掛け」だと言われていた。
影で「どうせすぐ辞める。他の社員が嫌がる業務でもやってもらおうぜ」と言われているのを聞いたこともある。
そんなことを言われても怒れないのは、怒る気力もなくなっていたから。
そして横暴なことを言う上司自身も目の下を真っ黒にした限界社畜だったからだ。
病人同士で喧嘩しても何も生まれないし、この職場の根本的な病巣はこの男ではないという感覚もあった。
奥さんに逃げられた、なんて話も聞いた気がする。
誰もが可哀想な世界。
取引先への土下座も、不機嫌な相手の態度を黙って受け入れることも、セクハラもモラハラも罵声も侮辱も、何もかもがここでは仕方がないこと。
社会は皆の苦労と仕方ないで出来ているのだから、特別視するようなことではない。
脅すように肩を、いや、首に近い場所を強く掴まれる。
真っ黒な目をした男からギチギチとした作り笑顔を向けられる。
「な、よろしく頼むぞ」と言われて頷いた時には──私の体は死ぬ前の成人女性のものになっていた。
自分の席に座り、パソコンを起動させてメールを確認する。
心を無にしてひたすらタスクをこなし続けていれば、苦しいことなんか何も無い。
そうだ、なにを大袈裟に騒いでいたんだろう。
みんなやってる事を私もするだけだ。
社会人なんだから我慢は当たり前だし、苦労すればきっと今よりスキルアップした人間になれる。
「こんなことも出来ないんじゃ将来何も出来ない」し、「我慢が足りない人間はクズ」だし、怖いことに飲み込まれそうな時は、なにか楽しいことを考えていれば大丈夫なのだ。
だから、……。
そう思った瞬間、デスクにずぶりと腕が沈んだ。
足も腰も椅子に沈んで溶けていく。
支えを失ってドッとデスクに倒れ込むと、顔や頭もどろりどろりと埋もれていくのがわかった。
個がなくなって、自分が溶けていく。
逃げようとも思わなかった。
逃げる必要性が見いだせなかった。
どこに行っても同じなのだから、ここで溶けて消えた方が「楽」だ。
異様な状態にも関わらず、周りの人間は誰も動じずに仕事を続けている。
カタカタというタイプ音だけが室内に響いた。
「──先輩!!」
ふと大きな声がして、私は弾かれたように顔を上げた。
「先輩先輩起きてください! 大変ですよぉ!!」
「!?」
思わずがばりと机から起き上がると、「後輩」が私を揺さぶっていた。
そして真剣な顔で、さも大切なことを言うようにタメを作って言った。
「先輩大変です。……~~っ“ドキドキレボリューション”の続編発売が決まったんですよぉ~~!!!!」
「へ?」
「ドキラブですよっ、乙女ゲーの名作ですよっ!! ドキラブやらずに死んじゃダメですぅ~~っ!」
「ええ? …………っふふ。真剣すぎでしょ」
「これ以外の何に真剣になればいいんです!? ご飯を食べることとかですか!?」
「後輩」は興奮で顔を赤くし目をキラキラさせている。
その瞳を見て、私の肩に触れる暖かい手を感じて、私はどうしてだか忘れていたことを思い出した。
私の前世は、悲惨なんかじゃない。
たった一人だとしても、私を支えようとし、心配し、温めようとしてくれた人がいた。
家族でもなく恋人でも友達でもなく、出勤したら会える同僚という関係だったけれど、そんなことは関係がなかった。
まるで太陽のような「他人」。
限界を迎えていた時は、それだけでは生きようともがけなかった。
そういう意味では「救い」ではなかったし、向こうもそんなつもりじゃなかっただろう。
だけど思い返すと、こんなにも温かくて胸が詰まる。
彼女の在り方はまさに太陽だと思う。
強制せず、叱咤せず、憐憫せず、ただそこで温かさを分けてくれた。
「残していってごめんね。仕事、大変だったでしょう」
肩にかけられた後輩の温かい手をそっと外す。
その手を両手でぎゅっと握り直した時にはもう、私の手は過去の成人女性のそれから今の少女の手へと戻っていた。
「そーーですよー!! 酷いですよ先輩! めちゃくちゃ大変だったしどれだけ私が泣いたと思うんです!?」
「うっ……、ま、まぁ突然死だし、許して欲しい」
ごめんともう一度謝ると、後輩は「まぁ先輩の後、すぐに辞めて逃げたから今は平気ですけどねー」と笑ってみせた。
もしかすると、私が残っていたせいで辞めにくかったのかもしれない。明快な彼女はきっとどこでもやっていけると常々思っていたが、そういうことだったのか。
そうだったのかと納得する一方でふと思った。
私はもう「アリス」の姿なのに、後輩はそれを一切気にしない。
「あなたは幻なの?」
「そうですよ~」
聞いてみれば、「後輩」はあっさりと答えた。
しかし感じる温かさに嘘は感じない。
だとすれば、これはただの夢ではないのかもしれない。
「じゃあ、消えちゃうのか……」
「消えませんよ?」
後輩が笑った。
「過去は永遠に消えませんから」
──その冷たくもなく、優しい訳でもない、老成したような微笑みを見て確信する。
この後輩は確かに夢の産物だ。
私の言葉を喋る、私の作りだした幻。
しかし先程までの体験も含めて、この夢には過去に体験したことや体験した感情しか登場しない。
それはつまり──この夢には真実しか出てこないということだ。
あの洞窟も、オフィスも、私の心象風景にして「真実」。
「過去に戻ること」を過剰に恐れていた、私の隠れた本当の姿が映し出されただけのものだった。
「“夢を征服するものよ、旅路の果てに王冠を掴み取らん”……だったっけ」
石版に書かれていた言葉を思い出す。
夢を征服するというのは、悪夢も良い夢も手中に収めて自在に操れという事なのだろう。
それにはまず、その人の一番恐れる真実を克服することが必要なのだ。
そして、もしここが激オカで言うところの「アストラル界」だというのならば、私は世界の夢に触れていることになる。
それは即ち、私を含めた全ての人の真理や記憶だ。
「それなら……」
「きっと、アベルさんを迎えに行くこともできます」
私の言葉を後輩が引き継いだ。
その笑顔に頷き返す。
今、アベルさんも夢を見ているはず。
強い人だが、アベルさんの過去にはあの強烈な太陽のような「後輩」がいない。
保護者だったとはいえ、距離のあるダヴィド校長や秘密の多い学園長はまた少し違うタイプに思えるし。
そしてなにより……アベルさんと「真実」という言葉の組み合わせに、なんだか猛烈な胸騒ぎがするのだ。
私はアサメイを構え、目を閉じた。
後輩ちゃんの顔はコニーに似ていたりします。




