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308 白い世界

 

 ふわふわとどこかを揺蕩っていた意識が浮上する。

 泡が弾けるようにぱちんと目が覚めて、私は目を開いた。


「……ここは?」


 辺り一面が白い。

 しかし何も無いというわけでは無く、まるで古代ローマの神殿のような建物であったり、舗装された石畳であったりが見えて、なにやら随分発展した街にいるらしいことが分かった。

 それらがモノクロに滲んで見えている。


 私は確か、アベルさんと地下迷宮に潜っていたはずで……。

 そして死竜に出会って。

 そう、死のタロットを使ったのだ。

 手応えとしては成功したと思ったのだが。


「まさかここ、天国? 失敗して逝っちゃったの私……?」


 だとしたら笑えない。

 しかし「ここが天国です」なんて看板が有るわけでも無く、どこまでも景色はぼんやりとしたままだ。


 耳元を空気が通っていく音や、木々が風に揺れる音が聞こえる。

 鳥が地面に影を落としながら飛び去ってゆき、傍らの整えられた花壇には蝶が舞う。


 それらをぼんやり見ていると、ふと声が聞こえた気がした。

 訝しく思って振り向くが誰もいない。

 しかし、視線に入った蝶がふいに淡い黄色に色づいた。

 それをきっかけにしたように、緑の木の葉に、空の青に、世界全体に色が戻ってくる。


 鮮やかになった視界に一歩踏み出してみると、動ける。

 明晰夢だろうかと思って首をかしげていると、離れた場所にある白い東屋に男性が座っているのが見えた。

 ずっとこちらを見ていたのか、ぱちりと視線が合う。

 男性が微笑んだ。


 ”おいで”


「……?」


 呼ばれた。

 きょろきょろしても、私以外には誰もいない。

 不思議に思いつつも近寄っていくと、男性は東屋の椅子から立ち上がった。

 銀髪で朱色の瞳をしている男性は、純白の刺繍が施された品の良い衣装を身に纏っていた。

 柔和な印象の顔が微笑む。

 不思議に思って見上げると、優しい手つきで頭を撫でられた。


「ありがとう」

「……あの……?」


 現実離れした美しい光景の中で、優美な顔立ちの男性が優しく優しく微笑んでいる。

 そんな男性が、ことさら優しく……いっそ寂しげに言葉を紡いだ。


「大丈夫だから、怖がらずに出ておいで。兄さんは待っているよ。……そう、伝えて欲しい」

「……?」


 誰に伝えて欲しいのだろう。

 聞こうと思ったが、その瞬間に世界がゆらりと揺らめいた。

 男性の姿が水面の向こうへ遠ざかるようにして薄くなっていく。


「旅はいつか終わり、幻は終わる。なにも恐れることは無いと教えてあげなさい」

「あの、……っ!?」


 またザアッと強い風が吹いて、木の葉の嵐に飲み込まれる。

 それに驚いて目を閉じたときには、世界は黒く染まっていた。


 ◇


 再び意識が浮上する。

 体を揺さぶられて、「ふが」と間抜けな声が出た。


「アリス!」

「……ふぇ?」


 ぼけぼけした声を出すと、視界に暴力的な美貌が飛び込んできた。

 なんだこのイケメン、とぼーっと眺めていると、顔面蒼白のイケメンが泣きそうに顔を歪める。

 それを見て急激に意識が覚醒した。


「アベルさん!? どうかしたんですか!?」


 どうやら床に倒れた姿勢から上半身だけ抱き抱えられている。

 どこか負傷したのか、何かあったのかとアベルさんの頬をぺたぺた触ると、一瞬呆けたアベルさんが盛大にため息をついた。


「はぁ……。……君」

「!」

「…………君、は、全く……!」

「あ、アベルさん?」


 どこからともなくゴゴゴ、と音が聞こえる。

 噴火の前の轟。

 そんな文字が脳裏を過った瞬間、アベルさんがカッと目を見開き「この大馬鹿者が!!」と耳をつんざくどデカい声で叫んだ。

 キーンとして目がチカチカする。


「君は! 本当に! 死にたいのか!!??」

「あ、あべるさ」

「死にたいのかと聞いている!!」

「しにたくないです!!」

「ならぶっつけ本番は止めろとあれほど言っただろう!!」

「ひゃいい!!」


 がうっと吠えるように怒られて思わず正座になる。

 眦を吊り上げ青筋を立てたアベルさんはくどくどとお説教を始めた。


「大体だな、何が“私、一度死んでいますから”だ。そんなの根拠でもなんでもないだろう。無駄にキリッと格好つけてる場合か」

「うっ、あのでも」

「言い訳は聞きたくない。死ぬのが怖いという気持ちがある限り誰にでも失敗の可能性はある。今後はもう軽率にあのカードは使うな」

「で、でも」

「分 か っ た か」

「はぃぃ!!」


 しゅんしゅんと小さくなりつつ頷く。

 確信を持って動きはしたけど、確かにそれは感覚的なものだった。

 なによりアベルさんが止めてきそうだったから強行突破しちゃった所もあったし。

 殊勝に小さくなっていると、アベルさんにじろりと睨めつけられた。


「そんな顔をしても駄目だからな。魂胆は分かっている」

「こここ魂胆……? そんな、私はあの人を助けたくて」

「それも本心だろうが、それだけじゃないだろう」


 ジト、と見られて冷や汗をかく。

 うっと呻いた。

 だってだって、私は世界を股に掛けるオカルトオタクであるので。


「君、試したがっていただろう」

「うっ……」

「今なら試すのも仕方がないと、自分自身に言い訳をしたな?」

「ううっ!」


 weak!weak!と弱点を連打される音がする。アリスに9999のダメージ。


「確かに皇城には潜入せねばならない。だが死の危険を犯して今すぐに強行突破しなければならないほど、時間が差し迫っている訳ではなかった。違うか?」

「違いません……」


 しゅんしゅんと縮んで、いよいよ手のひらサイズ位まで小さくなる。

 しかしアベルさんの怒りはおさまらなかった。


「そもそも効果がはっきりしていない状態で使うなどありえない。仮に竜を不死の呪いから解放できたとして、それが竜を生きた体に甦らせるというものだったらどうする? 欠損した部分を君から抽出することで成されたかもしれないんだぞ。君の体や魂はボロボロになったかもしれない」


 ううう、と唸るしかできない。確かにそれも有り得た。

 恐る恐る自分の体を見るが、一応変化は見られない。

 半泣きでアベルさんを見上げると、まったく、とひとつため息をついたアベルさんはようやくホコをおさめてくれた。


「見なさい」


 言われて振り向く。

 すると目に飛び込んできたのは──美しい白と淡い緑だった。


 肉を腐らせもがいていた竜の姿はどこにも無い。

 床から芽生えた草や花々に囲まれて、眠る猫のように丸くなった姿勢の竜は……綺麗に白骨化して亡くなっていた。

 まるで静物画のモチーフのように美しい光景だった。


「安らかに、眠れるといいのですが」


 思わず胸元を押さえる。

 骨を人間の形に戻すことはできなかったが、その姿にもう苦しみは見当たらない。

 ふと先程見た夢を思い出した。


 “早く出ておいで。兄さんは待っているよ。……そう伝えて欲しい”


「……」

「どうした?」


 問われて、あ、いいえ。と返す。

 夢と言うにはやけに鮮明で、知らない景色や知らない人しか出てこない変な夢だった。

 ありがとう、とも言われた。

 救われて欲しいという願望が見せた夢かもしれないが……もしかすると、死竜がお礼に見せてくれた夢だったのかもしれない。

 だとしたらあの男性は、死竜の生前の姿?


「なんとなく、オイディプスおじ様に似ていたような……」


 呟いてみるとますますそんな気がする。

 色彩はアベルさんに似ていたけど、髪質や顔立ちはオイディプスおじ様に似ていた。

 なんで二人がハイブリッドしちゃったんだろう。

 やっぱり、脳内でイケメンをミックスして作り出したただの夢だったのだろうか。


 不思議に思いつつ立ち上がる。


「アベルさん、……ぁ」


 ビックリした勢いで、脳内の呼び方通り「さん付け」してしまっていた。

 様をつけろよデコスケ野郎とセルフツッコミしそうになったところで「なんだ?」と普通に返されて、えっとと返す。


「……、ん? ああ、別に呼び方などどうでもいい」

「ええと、いえあの」


 そもそも、なんでアベルさんって呼んでたんだっけ。

 ラスボスなのに親しみやすすぎて、親しみを込めていたんだったか。

 しかし子供たちも身分を知らずとも自然に様付けしているし、と逡巡するが、肩をすくめられた。


「今となっては辺境伯を継ぐ予定もない。身分など無いのだから呼び捨てでも構わないさ」

「それは流石に……うんと」


 アベル様。アベルさん。アベル。

 ……いや、呼び捨てはやっぱりなんか違う。なんかいけない気がする。


「アベル……さん、で」

「大方ずっとそう呼んでたんだろう」


 変なことにこだわるな君も、とほんのり笑われた。

 それにヘラりと返したところで、私は重大な懸念事項を思い出した。


「そういえば。魔力の供給源だった死竜を解放してしまいましたけど、この迷宮って崩落とかしないんでしょうか」


 ……アベルさんが固まった。

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