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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月と円舞曲
53/84

六月と円舞曲 5

後書き部分に挿絵あり

 ついにパーティの日が訪れた。その日は朝からあいにくの雨模様だった。

 パーティは夜からだ。念入りにお風呂に入らされたあと、いつもと違う部屋へ連れて行かれて、身体や髪に良い香りのする液体を塗ったり、爪を綺麗に磨いてもらったりと大忙しだ。


 あらかじめ用意されていたドレスを着せられて鏡台の前に座ると、フレデリーケさんが手際よくわたしの髪を整えていく。あまり長さのない髪は扱いづらいだろうに、上手いこと誤魔化すものだと感心してしまう。


「ユーニちゃん、約束通り毎日ブラッシングしてくれたのね」


 背後から様子を眺めていたロザリンデさんが鏡越しに微笑む。


「え、ええ、それはもう。一度約束したことですからね。守るのは当然ですよ。人として」


 本当は毎日のようにクルトが目を光らせていたので、そうせざるを得なかったのだが。

 しかし、見ただけで髪の状態がわかるものなんだろうか。もしもさぼっていたら一体どうなっていたことやら……その点ではクルトに少しだけ感謝する。


「リボンの色、もう少し濃いものが良いかもしれないわね。別のを持ってきてもらえるかしら? ほら、端にレースの付いているのがあったでしょう。あれがいいわ」


 ロザリンデさんに言われてフレデリーケさんが部屋を出ていく。

 リボン、そんなに合わないかな……?

 後頭部の様子を見ようと首を捻っていると、ふと、鏡越しにロザリンデさんと目が合う。


「ユーニちゃん、ごめんなさいね」


 急に謝罪され、何事かと振り向くと、ロザリンデさんはすまなそうに目を伏せる。


「その……あなたが女の子かもしれないって疑いを抱いたとき、そのことを追求するか迷ったわ。だって、性別を誤魔化してまで男子校に通うなんて、相当な事情があるに違いないはずだもの。本当なら何も気付かないふりをするべきだったのかもしれない。でもね、私、どうしても確かめずにはいられなかったの」


 それは好奇心ゆえだろうかと考えているとロザリンデさんは続ける。


「余計なお世話だとは思ったけど、あなたの事が気がかりだったのよ。だって、まわり全部が男の子なのよ? その中に女の子が一人だなんて……ああ、もう、考えただけで恐ろしいわ」


 ロザリンデさんは両手で自身の身体を抱くようにして身震いする。


「ユーニちゃん、卑怯な手段であなたの秘密を聞き出した事は、申し訳ないと思ってるし、あなたもそんな私の事を心から信用できないでしょうね。でも、約束する。私もフレデリーケも絶対にあなたの秘密を口外しないし、他の使用人にも気取られないように上手く誤魔化しておくわ。ただ、あなたが心配なの。詳しい事情を聞いて余計にそう思った。だって、突然それまでとはかけ離れた環境に、たったひとりで放り込まれて、誰かに正体を打ち明けることもできない。そんな状態が続いて、平気でいられるはずがないもの。きっと心細い思いをしたでしょう? いつ周りに秘密がばれるんじゃないかと、気の休まる暇もなかったんじゃない?」


 ロザリンデさんの思いがけない言葉にはっとして、そのあと少し泣きそうになってしまった。今まで密かに抱えていた不安や焦燥。状況が状況だけに誰にも吐き出すことのできなかったそれらの感情。同じ女性であるからこそ、ロザリンデさんはそれを察して、気遣ってくれているのだ。そのことに、これまで心の奥のほうに抑え込んでいた色々な気持ちが溢れそうになる。


「ロザリンデさん、わたし……」


 なにか言わなければと思ったものの、言葉に詰まって俯いてしまった。

 その時、車椅子の車輪が微かに軋む音がして、顔を上げると、ロザリンデさんがすぐ隣にいた。


「やっぱり、辛かったのよね。ひとりで頑張っていたんだものね」


 彼女は片手でわたしの背を抱くようにそっと撫でる。その手は温かく。どこか安心を覚える。


「なにか不自由していることはない? 私にできることならなんでも協力するから、遠慮しないで言ってちょうだいね。と、言っても私自身は非力なんだけど……」


 ロザリンデさん、優しい。なんだかお姉ちゃんみたいだ。

 懐かしさにも似た気持ちのなか、そのままその手の温かさに甘えていたかったけれど、なんとか思い留まる。だって彼女はお姉ちゃん"みたい"だけれど、本当のお姉ちゃんではないのだ。余計な迷惑をかけるのはやっぱり心苦しい。

 本当の姉だったらどんなに嬉しいかとは思うけれども。


「……ええと、確かに色々と危うい事もありましたけど、これでも意外となんとかなってるんですよ」


 慌てて笑顔で繕う。確かに誰にも言えない不安な想いはたくさんあった。でも、こうしてわたしの気持ちを理解してくれる人がいる。それがわかっただけで、少し心が軽くなった気がする。


「それに、正確にはひとりじゃなかったです。クルトも色々と助けてくれたので」


 それを聞いて、ロザリンデさんは何故だか顔を曇らせる。


「……あの子が一番たちが悪いわ」

「え?」


 その意味を問おうとした時、フレデリーケさんがリボンを手に部屋へと戻ってきたので、わたしは慌てて目元を拭った。

 そういえば、フレデリーケさんに対しても本気でもない愛の告白だなんて失礼なことをしてしまった。性別を悟られないよう必死だったとはいえ、我ながら酷いと思う。後で謝らなければ。


 そこからはまた、ああでもない、こうでもないと色々なリボンやアクセサリーを取っ替え引っ替えしながら、着せ替え人形のような気分を味わう。

 ようやくロザリンデさんが満足気に


「さあ、これでいいわ」


 と微笑んだ時には、少しの疲労感を覚えていた。

 けれど、全身が映る姿見の前に立った瞬間、それも吹き飛ぶ。


「すごい……お姫様みたいな格好……」


 淡いオレンジ色を基調としたふんわりしたドレスにはリボンやレースがあしらわれ、その場でくるりと回ると、髪には同色のリボンがひらりと揺れる。首には緑色のガラスを使用したチョーカーが巻かれ、ときどき柔らかい光を反射する。

 小さな頃、おとぎ話を読みながら、本の中のお姫様の姿を想像したことはあったけれど、まさか自分がそのお姫様みたいな格好をする日が来るだなんて思ってもみなかった。


「うんうん、素敵よ。ユーニちゃん」

「あの、こんなドレスまで用意してもらって、わたし、なんて言ったらいいのか……」

「そんなの気にしないで。元々は私がパーティに行って欲しいってお願いしたことなんだから。うん、サイズもちょうどいいみたいね。着心地はどうかしら? 」

「ええ、大丈夫です……あ、でも」


 わたしは遠慮がちに告白する。


「お腹が少し苦しいというか……」

「あら……コルセットのせいかしら。悪いけど、しばらくのあいだ我慢してちょうだい。きっとすぐに慣れるわ。そういうものよ。それより、早くクルトにも見せてらっしゃい。そろそろ出かける時間だし、あの子、待ちくたびれているんじゃないかしら」


 その言葉に従い玄関ホールに行くと、クルトがいた。タキシードに身を包んだ彼は、花瓶に活けられた花をぼんやりと眺めているが、その光景がそのまま絵になりそうなくらい綺麗だった。


「わあ、クルト、その服似あってますね。かっこいい」


 声をかけるとクルトはこちらに目を向けたが、なぜだかきょとんとした顔をしている。

 な、なんだろう? わたしの格好、どこかおかしいかな……? 

 自分の足もとを見下ろして、不安な気持ちになっていると、クルトが何かに気付いたようにはっとして声を上げた。


「ああ、誰かと思ったらお前か! てっきり知らない女が近づいてきたのかと」

「は?」

「クリスマスの発表会のときも思ったけど、お前、女装が似合うな。うん」


 しみじみとそう言われて、わたしはむっとして言い返す。 


「失礼な事言わないでください! これがわたしの本来の姿です!」


 まさかとは思うけど、クルトって、わたしが女だって事を忘れてるのかな。

 これが女装に見えるだなんて、眼鏡が必要なんじゃないか。


「女装だったらクルトも負けてないと思いますよ? 発表会の時のヒロイン役なんて、カーテンで作ったドレスとはいえ、とっても似合ってましたからね」

「やめろ。あの時の事はもう言うんじゃない」


 いやな事を思い出したのか、クルトは渋い顔をした。

 それを見て少し溜飲が下がった。お洒落した乙女の姿を女装呼ばわりした報いを受けるが良い。くくく。





 ロザリンデさんに見送られ、わたしたちは馬車へと乗り込む。

 学校へは帰寮が遅くなる旨を事前に申請してあるから問題ないはずだ。


 動き始めた馬車の中を改めて見回す。以前に乗ったことのある簡素な乗り合い馬車とはちがい、立派な造りをしている。

 物珍しさにきょろきょろしていると、クルトが隣で口を開く。


「ところでお前、ウインナ・ワルツのほうは問題なく踊れるんだろうな?」


 その言葉に浮ついた気持ちが急に萎えて、現実に引き戻される気がした。


「……昨日、夢を見たんです」

「夢?」


 神妙な顔で答えるわたしに対し、クルトは怪訝な顔で問い返す。


「ええ。夢の中でわたしは必死にウインナ・ワルツを踊っていたんですけど……不意に足元が滑って――転びそうになったところで目が覚めました」


 わたしは縋るようにクルトを見上げる。


「どうしようクルト。何かの暗示だったりして……」

「……しっかりしてくれ。ただの夢だろ」


 そんな事を言われても自信がない。

 それに、夢のせいだけではない。正直なところ、毎日練習してきたにもかかわらず、今になっても正しくステップを踏めるかどうか怪しいのだ。それに加え、いつもよりかかとの高い靴と、窮屈なコルセットのおかげで、余計にうまく踊れる気がしない。

 うーん、この苦行に常に耐えているなんて、レディって大変なんだなあ……

 どうか、夢で見たような無様なことにはなりませんように。




 そして馬車は目的地であるランデル家の屋敷へと到着した。

 慣れない靴のせいか、足元が少しふらつく。

 クルトの手を借りながら馬車から降り、ふと見上げると、雨はいつの間にか止んでいて、空には星が瞬いていた。


 屋敷に入ると、使用人に案内されて長い廊下を歩く。

 やがて大きな扉の前に着くと、中からは微かな音楽と人々のざわめきが聞こえる。この扉の向こう側でわたしの見たこともないようなパーティが行われているのだ。なんだか急に緊張してきて、クルトの腕に添えた自分の手には力が入る。

 それを察したのか、クルトが囁く。


「そんなに構える必要はない。深く考えず、堂々としていればいいんだ」


 その言葉に、思い切って背筋を伸ばす。まっすぐ前を見据えると、隣でクルトがかすかに頷いたような気がした。


 扉がゆっくり開かれるにつれ、室内からは光が溢れ出て、中の様子が明らかになってくる。

 大きな広間の天井からは豪奢なシャンデリアが吊り下がり、部屋中を明るく照らす。その下では華やかな格好の人々が大勢いて、和やかに談笑している様子が見て取れる。どこからか聞こえてくる軽やかなオーケストラの演奏も、皆の気分を浮き立たせているようだ。

 しかし、思わず見とれていたのもつかの間、すぐにわたしの身体が異変を訴え始めた。


 ――きもちが悪い。


 胸からお腹にかけての締め付けがきつくて苦しい。きっとコルセットのせいだ。ロザリンデさんは「すぐに慣れる」と言っていたけれど、身体が訴える違和感は増している。さらに、その状態で馬車に揺られたためか、かなり酔ってしまったみたいだ。それが今になって急に襲ってきた。先ほどふらついたのも靴のせいではなかったらしい。

 十分に暖められた室内も、今のわたしにとっては気分の悪さを増長させるだけでしかない。思わず口もとを手で覆う。


「そういえば、お前は忘れているかもしれないが、前に少し話題にした、このランデル家の娘のこと……」


 途中までなにか言いかけたクルトだったが、俯くわたしの姿を不審に思ったのか、顔を覗き込んできた。


「おい、どうかしたのか?」

「……実は少し気分が悪くて。馬車に酔ったみたいです」


 そう伝えるのが精一杯だった。コルセットが苦しいからなんとかしてくれとはさすがに言えない。


「大丈夫か? まいったな……とりあえず、どこかに休めるところは……」

「――クルト様!」


 弾んだ声とともに、一人の少女が軽やかな足取りでこちらに近づいてきた。


「クルト様、いらしてくださったのですね。嬉しい。わたくし、お逢いできるのを楽しみにしておりましたの」


 年の頃はクルトやわたしと同じくらい。ミルクティーのような色の長い髪の毛を垂らし、頬を薔薇色に染めている。やや吊りあがりぎみで勝気そうな印象を受ける大きな瞳は、とび色にきらきらと輝き、まっすぐクルトに向けられていた。


「リ、リコリスさん……」


 彼女の姿を認めたクルトは、何故だか慌てたように少し後ずさる。声もなんだか上ずっているようだ。

 リコリス……何処かで聞いたような……確か、クルトがさっき言いかけた、この家の娘の名前だったっけ。クルトと相性が良くないとかいう……

 気分が悪いながらも、ぼんやりとそんなことを思い出していると、そのリコリスさんがこちらに目を向けた。


「こちらの方は……あら? あの、失礼ですけれど、どうかなさったの? お顔が真っ青……」

「ええと、実は、彼女の気分が優れないようで……と、そうだ、申し訳ありませんが、少しの間、彼女のことをお願いできませんか? 俺は、その、ランデルさんにご挨拶しなければならないので……」


 その言葉に思わずクルトを見上げる。

 もしかして、この人は右も左もわからない場所に、こんな状態のわたしを置いていくつもりなんだろうか。目の前のこの少女が苦手だからという理由で? それとも具合の悪いわたしのことが足手まといだというのか。

 まさかという気持ちで見つめていると、クルトは居心地悪そうに目を逸らす。

 間違いない。この人、ひとりで行くつもりだ。


「あら、それは困りましたわね。大丈夫ですか?」


 クルトの説明を聞いたリコリスさんは目を丸くする。


「わかりました。この方のことはわたくしにお任せ下さい。あちらに静かな場所がありますから、そこで休まれると良いかもしれませんわね。ご案内いたしますわ。クルト様はどうぞ、父のところへ」

「感謝します。それではまた後ほど」


 わたしは咄嗟にクルトの上着の袖をぎゅっと掴むが


「頼む。俺をこの場から解放してくれ。その間にヴェルナーさんの肖像画の件についても、きっと話をつけてくるから」


 と、小声ながらも必死に懇願するように言われたので、しぶしぶ手を離した。

ずるい。肖像画の件を持ち出されてはどうにもできないではないか。

 それを待っていたかのように、クルトは逃げるようにその場を離れ、すぐにその姿は多くの人々の間に紛れてしまう。


 うう……ひどすぎる。クルトの人でなし! 冷血漢! 悪魔! いつかジャムを塗りたくった靴の中に、カブトムシの幼虫をいっぱいに詰め込んでやるんだから!

 既に見えなくなった背中に向かって、心の中で悪態をついた。

挿絵(By みてみん)

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