六月と慌ただしい日曜日 1
日曜日の夕方、別荘に行っていたはずのクルトが帰ってきたと思ったら、開口一番
「お前、ねえさまに一体何をしたんだ!」
だとか言いながらわたしに詰め寄ってきた。
「ちょ、ちょっと、落ち着いてください! 急にどうしたんですか?」
いきなりそんな事を言われても、さっぱり心当たりがない。第一、この間の件以来ロザリンデさんには逢ってもいないのに。
クルトの勢いに押されながらも問い返すと、彼は拳を握り締めて微かに震えながら呟く。
「今日、ねえさまが『最近ユーニくんは遊びに来ないのね。なんだか寂しいわ』と言っていた。それって、お前に逢いたいって事だろう? なぜだ。なぜ俺を差し置いてお前に逢いたいなんて言い出すんだ。お前、ねえさまに何かしたんじゃないのか? それとも、ねえさまは俺だけでは満足できないというのか……」
またおかしな事を言い出した。
本当にこの人はお姉さんの事となると、ちょっと信じられないくらい冷静さを失うようなところがある。
「何もしてませんよ……それに、知り合いに逢いたいって思うのは、別に変な事じゃありませんよね? 」
「でも、こんな事今まで無かったんだぞ? 俺の同級生を名指しで逢いたいと言い出すだなんて。それも一度ならず二度までも……」
「それって……」
この間ロザリンデさんが言っていた。クルトがもう何年も家に友人を連れてきた事が無いと。
誰も連れてきた事が無いのなら、名指しで逢いたいなんて言いようが無いし、今まで言い出した事も無いというのも納得できる。
そんな弟が久しぶりに連れてきた友人(と呼べるかは疑問だが)となれば、姉としても多少興味を覚えるものなのでは。だからまた逢いたいと言っているのではないか。
でも、その話を聞いたのはロザリンデさんと二人きりの時で、クルトは知らないはずだ。だから、それを今わたしが口に出すのはまずいかもしれない。あの雰囲気はいかにも内緒話という感じだったし。
そう思って口を噤むが
「なんだ!? 今なにか言いかけただろう!? 心当たりがあるのか!? 教えてくれ!」
クルトにはしっかり聞こえていたらしい。すごい勢いで食いついてくる。
「え、ええと……」
まずい。なにか言い訳を考えないと……
わたしはクルトから視線を逸らしながら口を開く。
「あー……ほら、ロザリンデさんは、わたしが女だって事を知らないわけですよね?」
「……そうだな。だから?」
「だから、ロザリンデさんはわたしの事を男だと思って、それで異性として好きになってしまったんですよ。逢いたがっているのも、きっとそのせいです」
言いながら、これはこれで意外とあり得るんじゃないかと思えてきた。
わたしだって男の子の格好をしているにも関わらず、時々「女の子みたい」だと言われる。それって端的に言えば「女の子と見紛うばかりに愛らしい男の子」という事になるんじゃないだろうか。そんな愛らしさを持ってすれば女性から好意を寄せられる事だってあるかもしれない。なんて。
「そういうわけで、わたしがロザリンデさんに何をしたかと問われれば、恋という魔法をかけた……あ、わたし今すごく素敵なこと言いました? 言いましたよね?」
自画自賛するも、クルトは呆れたように額に手を当てると、深々と溜息をつく。
「何を言うかと思えば……そんな事、あるわけないだろう?」
「えー、そうですか?」
「そうに決まってる!」
力強く言い切られてしまった。この自信はなんなんだろう。これといった根拠もなさそうなのに。
しかし、その後でクルトはふと不安そうな表情になる。
「……でも、もしも万が一、お前の言うとおりだとしたら……俺はお前をねえさまに逢わせるわけにはいかない」
さっきの自信はどこへ行ったのか。考え直すの早いな。
「そんなに心配する必要ありますか? たとえロザリンデさんがわたしの事を好きだとしても、そもそも女同士なんだから、そういう関係には発展しようがないのに……」
「俺が気にしているのはそういう事じゃない。もしもねえさまがお前に好意を抱いていると仮定して、その想いが通じないとわかったら、ねえさまは深く傷ついてしまうだろう? それなら、もうお前を逢わせないほうが良い。今ならまだ傷は浅くて済むだろうから……だが、ねえさまがお前に逢いたいと言うのなら、俺はその願いを叶えたい……一体どうしたら良いんだ……」
わたしの適当な言動でジレンマに陥ってしまったようだ。クルトは思いつめたような瞳で床の一点を見つめている。
その様子を見て、軽い気持ちで発言したことに対して若干の後ろめたさを感じてしまった。方向性はどうであれ、彼がこんなふうになるのもお姉さんを想う気持ちゆえなのだろうから。
「でも、ほら、そうと決まったわけじゃないですよ。実際にロザリンデさんの様子を見てみない事にはわからないんじゃないかと……というか、ロザリンデさんに直接聞いたら早いと思うんですが」
「ねえさまは繊細なんだ。そんな無神経なことを俺が聞けるわけが無い」
そんな大袈裟な。と思ったが、クルトの家庭ではそれが常識なんだろうか?
でも、それが無神経だというのなら、クルトは普段わたしに対して結構無神経な振る舞いをしているような気もするのだが。
そんな事を考えていると、クルトは顔を上げる。
「ともかく、そういうわけだから来週の日曜日、頼んだぞ」
「え?」
「どんな理由にしろ、お前がいなければ判断しようが無いじゃないか。だから一緒に来てもらうからな。お前も今言っただろう? 実際に様子を見てみない事にはわからないって」
「それは、確かに言いましたけど……」
口ごもるわたしに対し、クルトは真剣な、そしてどこか縋るような目を向けてくる。
これはもしかして余計な事を口走ってしまったのかもしれない。
冷静に考えてまず無いとは思うが、もしもロザリンデさんが本当にわたしに対して異性に向けるような好意を抱いているとしたら、すごく面倒な事になるような気がする。主にクルトが。ロザリンデさんが知り合いに逢いたいというような事を口走っただけでこんなに取り乱しているのだから。
でも、最初に予想した通り、ただロザリンデさんが弟の友人という存在に興味を持っただけの話かもしれない。むしろその可能性のほうが高い。それが真実だとわかれば、クルトも少しは落ち着くんじゃないだろうか。
それに、この間の眼鏡ケースの件もある。クルトが詐欺まがいの事をしてまでアルベルトの眼鏡ケースを持ってきたのは、わたしがカブトムシの幼虫を入れてやるなんて言った事が原因に違いないのだ。むしろ他にどんな理由があるというのか。
それを考えると、このまま無下にするのは躊躇われた。
「え、 ええと、そうですね……はい、行きます」
結局、わたしは曖昧な笑みを浮かべながら頷いた。
そういうわけで、日曜日になり、わたしはまたクルトの別荘でお風呂に入らされていた。
相変わらずバスタブにはピンク色のバラの花びらが浮かび、良い香りを漂わせている。
バラの花なんてもうとっくに散っている時期なのに、一体どこから手に入れてくるんだろう。特別な伝手があるんだろうか? もしかして、クルトの家って思っていた以上にお金持ちなのかも……
でも、そのおかげでこうして心地良い時間を過ごすことができているのも確かだ。
それに、何よりもひとりでゆっくり入れるというのが素晴らしい。
わたしはそっと自分の膝の辺りを指で撫でる。
そこにはちょっと目立つ赤黒い痣がある。孤児院にいた頃は、時々この痣の事をからかわれた。普段は服で隠れて見えなかったが、みんなで入浴する時は流石に誤魔化せない。痣を見て「魔女のしるしだ」なんて言う子もいた。
勿論信じるわけは無いけれど、それでも何度も言われれば少しは傷つきもする。その事もあり、お風呂に苦手意識を持っていたのだ。
でも、今はそんな心配も無い。誰の目も恐れず好きなように入浴できるというのは思っていた以上に快適だとわかった。
鼻歌まじりにゆっくり身体をお湯の中に沈めたその時
がちゃり、という音が浴室内に響いた。
「ん?」
反射的に音のしたほうに顔を向けると、入口に立つフレデリーケさんと目が合った。
お互いに一瞬見つめあった後
「きゃあ!!」
フレデリーケさんが悲鳴を上げる。
「も、も、申し訳ありません! 私ったらなんて事を……!」
そう言いながら顔を背けると、勢い良くドアを閉めて出て行った。
浴室にはわたしひとりだけが残され、再び静寂に包まれる。
暫し呆然とした後、はっと我に返る。
「え? あれ? 今のって……」
もしかして、裸を見られた……?
わたしは自分の身体を見下ろす。
一応肝心な部分はお湯に浸かっているし、一面に浮かんだ花びらではっきりとは見えないはずだ。それに、一瞬だったし……
でも、それでも相手から見えていたとしたら、わたしが女だという事がフレデリーケさんにバレてしまった……?
まさかという気持ちと、もしかしたらという気持ちがこみ上げてくる。
どうしよう。優雅な入浴時間を堪能している場合ではなくなった。
いつもの部屋に案内されるなり、テーブルに用意された食事が目に入った。少しだけそちらに気が移りそうになったが、すぐ我に返ってクルトに駆け寄る。
「クルト、大変です!」
そこではっとして声をひそめる。
「さっき、お風呂に入っている最中に、フレデリーケさんと鉢合わせして……!」
お茶を飲んでいたクルトはカップを持つ手を止めてわたしを見返す。
「……見られたのか?」
「それが……よくわからないんです。見られたような、見られてないような……」
慌てて浴室を出たところで、フレデリーケさんからはこちらが気の毒になるくらい何度も謝られた。
その必死な様子にあれこれ尋ねる事もできず、わたしが女だと彼女に知られたかどうかまでは判断できなかった。
「いっそのこと彼女に全てを告白して協力して貰えば良いんじゃないか? お前も同性の理解者がいたほうが色々と都合が良いだろう?」
クルトの言葉に一瞬、それも良いかもしれないと思ったが、すぐに考え直す。
「だめですよ! すんなり協力してくれるかわからないし、もしもフレデリーケさんが『誰にも言わない代わりに言う事を聞け』だとか言い出したら、対応できる自信がありません!」
「俺が似たような事を言った時には、あっさり受け入れたじゃないか」
「あの時は、クルトがあんなおかしな頼み事をしてくるとは思ってもいなかったからです! 人間には出来る事とできない事があるんですよ! それに、もしそれだけじゃなく金品なんか要求されたら、わたしにはどうしようもできません」
「そもそも、ねえさまが直々に雇ったメイドがそんな卑劣な事をするとは思えないんだが」
その判断基準はおかしい。でも、わたしがこんなに焦っているのに対して、クルトの態度がどこか暢気に見えるのはそのせいなんだろうか。
「それなら、ロザリンデさんの弟なのに似たような事をわたしに要求してきたクルトはどうなんですか!? 説得力ありませんよ!」
「それは……」
わたしの指摘に、クルトは気まずそうに目を逸らした。
そういえば、前にその事について反省していたようだし、自覚はあったんだろう。
それを誤魔化すように咳払いして、クルトは改まった口調になる。
「それで、お前はどうしたいんだ? 彼女を問い詰めて、どこまで見たのか聞き出すつもりか?」
「そんな事したら余計変に思われますよ……わたしは、フレデリーケさんが微かにでもわたしに対して『女かもしれない』という疑いを抱いているのなら、それを払拭したいです。でも、そもそも疑っているのかどうかすらわからないんですよね……ああ、どうしよう」
わたしはテーブルの周りをうろうろと歩き回る。
どっちにしろ疑いの目を逸らすには、わたしが男であると思い込ませるのが一番手っ取り早いと思う。
でも、わざわざ「わたしは男です」と宣言するのも不自然だ。
わざとらしすぎず、ごく自然に、わたしが男であるとフレデリーケさんに思わせる手段なんてあるんだろうか?
もうクルトの言うとおり、今のうちに彼女だけに全てを告白した上で口止めしたほうが良いんだろうか?
考えた末、わたしは足を止めると、テーブルにばんっと両手をついてクルトのほうを向く。
「……クルト、お願いがあります。フレデリーケさんをここに呼んでもらえませんか?」
彼はわたしの勢いに驚いたような顔をしながらも、いつもと同じような調子の声で問い返す。
「一体どうするつもりなんだ?」
わたしはクルトの瞳を見据えながら答えた。
「決めました。わたし、フレデリーケさんに告白します」




