【鷹司晴夏】『運命の半身』
僕は、貴志さんに問う。
彼の音色を変えるほどの想いとは何か。
それを知れば、音に心を宿せるのか──と。
「僕は知りたい。音に心をのせるということを──貴志さん、あなたにとって、その大切な人というのは、どんな人なんですか? 音色が変わるほどの想いとは、どんなものなんですか? それを知れば、音に心を宿せるのでしょうか」
答えてくれるかどうかは分からない。
けれど、僕が『天上の音色』に近づくために、知らなくてはいけないことだと思ったから。
彼は僕の言葉に、ふっと優しく笑った。
「晴夏、お前『羽衣伝説』って、知っているか?」
羽衣伝説──あの昔話のことだろうか。
「羽衣天女のことですか? 知っています……でも、それが……?」
「俺にとって彼女は『羽衣をなくした天女』だったんだ。いずれ手元を離れるまで見守り、ただ彼女の幸せを願うだけだと──そう思っていた……筈だった」
貴志さんの言う『羽衣をなくした天女』が、彼の想う女性を指すことは分かった。
「今では、よくわかる──羽衣を隠した、あの男の気持ちが。天女を地上に縫い留め──彼女が、自分の腕の中から離れる日がくることを恐れていた男の心の内が」
彼は自嘲の笑みをもらして、僕の瞳を見詰めた。
「俺はそれが、とても恐ろしかった。遥か高みに昇る彼女を、手放すことができなかったら──そう考える自分自身に愕然として、怖くなったんだ」
僕は、ただ黙って、彼の話を聞いている。
貴志さんの中で何かが──僕には知る由もない彼の気持ちが、変わろうとしているのを感じたから。
「晴夏、お前の言葉で……目が覚めた──俺も彼女と共に、そこへ昇っていけばいいだけのことなんだ。彼女の幸せを自分以外の誰かに託す……何故そんなことを思っていたんだ──俺は」
貴志さんは「まさか晴夏に教えられるとは」と言って、彼はまた優しく笑った。
「その気持ちを……その人に伝えられたら良いですね。心を伝えるのは……とても難しい。少なくとも──僕にとっては」
僕にとって、自分の気持ちを相手に上手く伝えることは、とても大変なことだ。
でも、きっと貴志さんのような大人ならば、その気持ちを伝えることは造作もないのだと思う。
男の僕でも、彼に対して憧れに似た思いを抱くのだ。
彼がその気持ちを『天女』に伝えたら、その人もきっと喜ぶだろう。
僕の言葉を拾った彼は「いや──この気持ちは伝えられない……言ってはいけないんだ。今は、まだ」と笑った。
伝えない。伝えられない想い──だから、貴志さんは、穂高は──その秘めた想いをのせて音色を奏でるのだろうか。
だとしたら──
「今の僕には、まだ、あなたのように、心を息づかせる演奏はできそうもありません……」
僕が意気消沈して俯くと、彼は言った。
「誰かを慕わなくても、演奏に心をのせることは可能だ。例えば、家族を想う心。美しいものを見た時の気持ち。楽しいことだけじゃない、苦しいこと、悲しいこと、それから怒りでさえも──すべての経験が音に現れる。その気持ちの思うままに奏でればいいんだ。
少し前まで、俺は……負の感情を内包する曲を弾くことが得意だった」
彼の言葉に目を見張った。
負の感情を表現することを得意とした彼が、あんなにも情熱的で胸に響く演奏をするようになるというのか──
だとしたら、『恋』とはなんて恐ろしいものなのだろう。
僕もいつか、そんな気持ちを持つ日がくるのだろうか。
その時に、僕は、彼らのような美しい音色を──心を重ねた調べを生み出せるのだろうか。
彼が教えてくれた「家族を想う気持ち」──それなら、少し分かる気がする。
両親が、僕と涼葉に向ける愛情。
両親に感謝する心。
それから、僕が、涼葉を大切だと感じる兄妹の情。
「家族を想う気持ち──それなら、僕にも分かる気がします」
そう貴志さんに伝えている時に、ふと穂高の横顔が脳裏を過った。
「でも……僕が涼葉を想う気持ちと、穂高が真珠を想う気持ちは──同じじゃ……ない……?」
突然、何を口走っているのだろう──僕は。
自分の口から溢れた言葉に、ひどく困惑する。
それと同時に、払拭できずにいた疑念が再びよみがえる。
貴志さんは黙って、僕のその言葉を聞いている。
彼は、僕の発したその言葉に対して、肯定も否定もしなかった。
けれど、貴志さんも気づいているのかもしれない──穂高が真珠に抱く、不可思議な想いを。
もし、穂高が真珠に対して『運命』を感じているのだとしたら?
彼女との出会いに『運命』を感じたのは、僕も同じだ。
彼女と一緒に音を奏でたい。
彼女の音色に近づきたい。
あの音を紡ぐ、彼女の手に、指に、触れてみたい。
この気持ちを何と呼ぶのだろうか。
貴志さんを救ってくれたという女性──それは、僕にとっての真珠にあたる存在なのかもしれない。
でも、僕にとっての彼女は、貴志さんや穂高がいう『想い人』とは違う。
これは『恋』という名前の苦しい感情ではない。
貴志さんや穂高が抱くものとは、少し違う気がする。
彼女の音色に出合ってから、彼女本人と出会ってから──『運命』という言葉が、心の奥底に棲みついて離れない。
音楽の世界に神がいるのだとしたら──それが僕に、彼女の爪弾く音色を巡り合わせてくれたのだと思う。
彼女の奏でる音色を、それを織る手と指を、愛しく感じる──
僕は、彼女に──その生み出す音色に、惹かれている。
けれどこれは『恋』ではない。
彼女は、音の道を共に歩む『魂の片割れ』──
僕の魂が求める──『運命の半身』だ。







