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【鷹司晴夏】「天上の音色」




 彼女は現れた──


   幾筋もの、まばゆい陽光を背に。


   ──靄の中、光を求め彷徨う僕の前に。





 その瞬間──彩をなくした僕の世界に、黄金色(こがねいろ)の閃光が駆け抜けた。



          …



 夏休みに入ってすぐの頃、母が一枚の映像ディスクを手に帰宅した。


「ハル、面白い物が手に入ったぞ。寝る準備が終わったら家族で鑑賞だ」


 母は、とても楽しそうに笑っている。


「紅ちゃん、本当にここだけにしてね。外には絶対に出さないで。お願いだから頼む。この通り」


 父が、右手を自分の胸にあて、心を落ち着かせようと努力している姿が目に入った。


「大丈夫だ。安心しろ、克己くん。わたしは自分が面白いと思うことしかしない」


 母が持ち帰った未就学児用弦楽コンクールの映像ディスク。それを手にした彼女は嬉々としながらそう言った。


 父はブツブツと「誰が紅ちゃんにこのディスクの存在を……ああ、もう僕には止められない」と嘆きの様相を見せる。



 母は、ピアニストの柊紅子──本名は鷹司紅子と言う。

 普段は世界中を飛びまわり、その情感溢れる演奏で数多の人々の心を虜にしている。


 父は、TSUKASA楽器を筆頭に音響機器や映像機器を取り扱うTSUKASAグループの総帥・鷹司克己。

 学生時代には様々なバイオリンのコンペティションを席巻したが、大学を卒業の後、家業を継いで経営の道に進み現在に至る。



 父方の祖父は作曲を続けながらTSUKASAの会長職につき、祖母は声楽家。

 母方の祖父は指揮者で、祖母は母と同じくピアニストだ。



晴子(はれこ)はいるかー?」


 母は祖母──母の実母を探し、家中を歩き回っている。

 祖母の晴子さんは、夏休みに入ると忙しい両親のかわりに、僕とスズの世話をしに時々やってくる。



 父方の祖父母も忙しい人たちなので、両家で協力体制を整え、長期休暇を乗り切っている状況だ。



「晴子さんは、今日はもう帰りました。夜、ピアノの生徒さんが受験対策にいらっしゃるそうです」


 僕は母に、祖母は既に自宅へ帰宅したことを伝えた。



 祖母・柊晴子──彼女もピアニストだ。


 母と同じく旧姓で活動しているので、境野晴子と言う方が世間一般には通じるようだ。

 現在は音楽大学で准教授職にあり、後進の育成につとめている。


「そうか、もう帰っていたとは……それは残念だ。仕方がない。そうだ、雪ちゃんと謙介くんは、もう戻っているのか?」


 雪ちゃんは、父の実母──千原(ちはら)雪乃という声楽家で、本名は鷹司雪乃。

 謙介くんは、父の実父──鷹司謙介。TSUKASAグループの会長であり作曲家だ。


「いえ、まだ二人ともサロンコンサートから戻っていません」


 僕がそう告げると、母は残念そうに溜め息をついた。


「明日にはこのコンクールディスクは戻さねばならんが──まあ、仕方がない。ハル、はやく見るぞ。準備をしてこい」



 ──未就学児のコンクール。

 正直、あまり興味はなかった。



 同年代のバイオリン奏者が、そこまで優れているとは思えない。


 その映像を見ることで、僕に何かが得られる可能性はゼロに近い。


 時間を無駄にしたくなかった。だから──



「母さん、僕は結構です。自分の練習をしたいので」



 そう伝えて、夕食後の団欒の席を立った。


 今日は特に、同年代の子供の演奏は聴きたくなかったのだ。






「何故、正しい音で弾こうと努力しないんだ?」


 僕はおそらく、この言葉で『彼』の心を傷つけたのだ。


 そして、『彼』の言葉で、僕の心も──




         …






 バイオリン教室で開催する次回のリサイタル。

 そこで僕は、個人発表の他に二重奏をすることになった。


 同じスタジオに通う二歳年上の少年とのアンサンブルだ。


 ふたつ年上の少年──須藤新太(あらた)は、仲間内では筋が良いといわれている、スタジオ内では有名な小学生だ。


 曲名は『ふたつのバイオリンの為の協奏曲(コンチェルト)』──セカンドバイオリンのパート譜を渡されたのは二週間前のこと。


 自宅に戻りサイトリーディングをはじめる。

 正しい音とリズムに気をつけて、細心の注意を払い楽譜と向き合う。


 僕はこの時間が好きだ。



 新しい曲との出合いの瞬間──音符を読み、今まで知らなかった曲の流れに耳を傾け、楽譜の中に隠れるメッセージを受け取るために没頭する、この瞬間が。



 初見での演奏は、多少の音のズレを感じはしたが、テンポは正確に弾くことができた。


 数日あれば、ダイナミック奏法もあわせて完璧に弾きこなせる──そう思って安心する。


 初めてのアンサンブル体験。年上の生徒との演奏だ。


 もしかしたら、この須藤新太という年上の少年が、僕に彩のある世界を見せてくれるかもしれない。そんな期待が無かったとは言えない。







 去年のリサイタルでは、同じ年齢のバイオリン教室に通う生徒数名と一緒に合奏をした。


 皆で同じ曲を合わせるだけの、パートに別れてもいない単純な曲だ──けれど、音程はバラバラだった。


 何度合奏しても全員で音が揃わないのだ。


 数週間に渡ってグループ練習もし、子供が弾くにしては良い音色だと皆が口々に褒めるのだが、僕にはそう思えなかった。



 あともう少し、あと本当に僅かな調整で完璧になる筈なのに、何故それを直そうとしないのか──僕は不思議でならなかった。



「どうして、もっと努力をしないのか」

「何故、あと少しの音のズレを直さないのか」


 だから僕はそれを聞いた──合奏する仲間に。



 最上の──『天上の音色』といわれる音の輝きを探そうとしない彼らのことが、理解できなかったのだ。



 『天上の音色』──誰かが、母の爪弾くピアノの演奏に対して評した言葉だ。天空の世界、神の理の世界で流れる音色だ、と喩えた賛辞。



 僕がその音を求めれば求める程、他の生徒達との溝は益々深まっていった。


 僕の言葉が、仲間を傷つけていたことも、後から知った。




 僕の世界は、音楽を愛すれば愛するほど、彩りも輝きも失い、灰色に変わっていった。


 ──人と語ることも避けるようになった。





 母は、「友と奏でる音楽の素晴らしさを知ってほしい」と言う。


 けれど──



 僕がそれを知ることは、一生ないのかもしれない。





 

 母が弾くピアノのように、多彩な色に溢れた音を奏でたい。

 彼女の指先が生み出す、光の粒のような音色の重なりに近づきたい──そう思って努力する僕をよそに、合奏する仲間との間には、音楽に対する愛情の温度差だけが広がっていく。


 ただ、美しく、正しく──弾きたいだけなのに。





 今日の須藤新太との合同レッスン──先生はそれぞれの演奏を褒めてくれた。

 お互いの音を確認するのみのレッスンだった。


 先生の判断により「今日のお互いの演奏で感じたことを一度考えて合奏は次回にまわしましょう」──そう言われ、練習は終わった。


 そこで僕が欲を出さなければ良かった。


 彼の演奏は完璧ではないが、心がこもっていた。

 それは分かった。僕にはできない情感ある演奏だった。

 正直、彼の心をのせた演奏が羨ましかった。


 ──だから、欲が出た。


 これに正確さが加わったら、彼の演奏は色づく──そう思って、良かれと思って言ってしまったのだ。


「何故、正しい音で弾こうと努力しないんだ?」


 ──と。


 なんと伝えたら良いのか、僕には分からなかった。

 人を慮る言い回しなど、知らなかった。 


 彼は自分の演奏が完成されていないことを理解していた。

 それができないかわりに、心を込めて弾いていたのだ。


 僕の言葉を受けて、須藤新太は悔しさに顔を歪ませる。


「お前の演奏は正確だ。だけど心が無い。お前こそ、なぜ気持ちを込めないんだ」


 ──彼はそう言った。


 須藤新太は、僕の欠点を言い当てたのだ。


 僕たちは、お互いにお互いの心を傷つけ合った。


 その引き金を最初に引いたのは、僕だった。




 昼間あった出来事を思い出し、後悔に苛まれていた僕のもとに母がやって来た。


「ハル、今日の二重奏のレッスンの話をたった今、晴子から電話で聞いた」


 僕は母の顔を見る。


「お前の言葉が足りなかったようだが、それについてはどう思う?」


 僕は答えた。


「それについては反省しています。傷つけたことも後悔しています。でも、僕は──」


 間違ったことは言っていない。


 そして彼も、間違ったことを言っていないのだ。





「とりあえず、居間に来い。コンクールのビデオを見るぞ」


 母はそれだけ言って退出しようとする。


「同じ年代の子供の演奏に、なにかを見つけられる気がしない。僕は結構です」


 僕は頑なに固辞した。



「ハル、お前は音楽が好きか? お前の目の前に広がる音の世界は、今どんなふうに見えているんだ?」



 息を呑んだ。

 母は、僕の心の中の風景が見えているのかもしれない。


 この、色を失い、カラカラに乾いた世界を──


「言いたく……ありません」


 僕はそう声を絞り出すのが精一杯だった。



「だったら──お前は、あのコンクールの映像を見るべきだ。何かが見つかるかもしれんぞ。あれは『天上の音色』だ」



 僕はハッとするように顔を上げた。


 『天上の音色』──僕が求めてやまない、母が奏でるあの音色。


 そんな奇跡の音色を爪弾く子供が存在すると言うのか。

 いや、そんなまさか──



「ハル、あれは今のお前が聴くべき演奏だ。そうわたしは感じた──だから来い」



 母はそれだけ言うと踵を返し居間へ戻っていく。

 その際、一度だけ僕を振り返り、口を開いた。


「多分、いま聴かなければ──見なければ、一生後悔することになる。そんな『匂い』がするんだ。音楽を愛したいのなら、奏でる幸せを噛みしめたいのなら、騙されたと思って見に来い」



 『匂い』──母が、その天性の音楽的な勘を感じた時によく使う言葉だ。



 そして、その『匂い』と表現する勘が外れたことがないことも、僕は知っている。



 ──『天上の音色』に出合えるのだろうか。


 音楽を愛するが故に彷徨う、この灰色の世界──この暗闇から抜け出すことができるとでも言うのか。


 この昏い世界は、バイオリンから離れることができた時に、僕の心から消えるのだろう。



 けれど、それは──音楽を捨てることだ。

 それを考えるだけで、心を引か裂かれるような苦しさが僕を襲い、更なる辛苦が生まれる。



 母の手が、指が、奏でるあの音色。



 あれと同じ、僕の心をとらえて止まない音を奏でる子供が、この世に本当に存在する?


 その子供は、僕の心に彩りを、光を、与えてくれるとでも?



 ひとりで歩むには辛いこの暗闇。

 僕の佇むその世界を、道標となって照らしてくれる灯火──いつか、自分のこの足で歩むための希望の光。



 焦がれてやまない『天上の音色』──彩りに溢れる未来。その輝きを垣間見ることができるならば──




 母の言葉に一縷の望みをかけ、僕は自室から、その一歩を踏み出した。






晴夏ターンは、重複箇所もありますので、後ほど番外編として取り出す予定でおります。



先を急ぎたいかたは、87話まで読んでから99話、その後105話以降でも、何となく意味は通じると思います。(推奨はしませんが、ひとつの選択方法として提示させていただきます)


全話通した方が、今後の展開上で「どういうこと?」「え?何で知ってるの?」「この意味は?」という疑問が生まれないのは間違いないですが、早く演奏会に進みたい、という方の為にお伝えします。



晴夏とトラブルを起こした少年・須藤新太が主人公のヒューマンドラマ『氷の花がとけるまで』にて、二人の諍いの顛末が描かれております。

『氷の花』とは言わずもがな、晴夏のことであります(*^^*)

(第一部まで完結済み)

リンクは下部にございます。

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