【真珠】貴志の慈悲
R15です。
理香が下着姿で、貴志のベッドにもぐりこんでいる。
どうしよう。
本当にどうしたらいいのだろう。
とりあえず、ここはわたしが一旦クローゼットから出て、理香をなんとか追い払わねば。
そう決心して寝室へ出ていこうとした瞬間――ものすごい勢いで玄関が開いた。
貴志だ。
走ってきたのだろうか、荒い呼吸が室内に響いている。
テーブルに私が持ち歩いていた花束を認めた貴志は、ゆっくりと寝室に入ってくる。
時刻は夜七時半をまわったところだ。
部屋の中は、月の光に照らされている。
満月まで近いこともあり、降り注ぐ月光のお陰か、室内はほの明るい。
彼は窓が開いていることに気づいて、一度窓辺に寄っていく。
「真珠……、お前はそうやって、いつも俺を置いていくんだな……酷い……女だ」
貴志は、寂しそうな声でそんなことを言いながら、ベッドに腰かける。
そして、彼はベッドの違和感に今初めて気づいたというように、一瞬腰を浮かそうとした。
――そこに理香の手が伸びた。
彼女が、貴志のワインレッドのシルクタイを引き寄せ――その口が、貴志の唇を塞ぐ。
わたしは息を呑んで、身動ぎひとつできなくなった。
身体が固まってしまって、クローゼットから出ていくことさえできないのだ。
貴志は突然の出来事に驚き、そのまま理香の手によりベッドに倒されていった。
「西園寺!? 何故ここに……まさか、窓から入ったのか?」
貴志は仰向けにベッドに横になり、理香に一度塞がれた唇を拭っている。
理香はその貴志の上に下着姿で馬乗りになり、人差し指で彼の唇を閉じた。
「貴志、どういうことなの? 柊紅子が本命だと思っていたけど、まさかっ」
「お前には関係ないだろう。俺の上からどいて、早く出て行け」
貴志が静かに怒りを募らせているのが伝わってくる。
「あの夜が忘れられないの。だから、もう一度、わたしのこと……抱いて」
貴志が息を呑むのが分かった。
「何を言って……。あの場限りのことだろう。お前もそのつもりだった筈だ」
理香は、悔しそうな声を滲ませる。
「そうよ。こっちだってそのつもりだった。でも、今日のあなたを見ていたら、もう一度欲しくなった。ただ、それだけよ。わたしはね、欲しい物はどんな手を使っても自分のモノにする主義なの」
貴志の溜め息が室内に洩れる。
「西園寺……」
そう呼ぶ貴志の声に、かぶせるように理香が言う。
「理香よ。昔みたいに理香って呼んでよ」
彼女の声がだんだんと大きくなる。
「お前は、まるで……子供みたいだな。別に俺のことを好きなわけじゃないだろう。ただ手に入らない玩具が欲しいだけだ。手に入れたらいつも飽きて捨てる。いつまでそれを繰り返すんだ。お前のことをちゃんと見ている奴もいるのに。それにも気づかない」
貴志の声がスッと静まっていく。
「どういうことよ?」
理香の困惑した声が室内に響く。
「昔はこんなやつじゃなかった筈だ。この数年の間に何があったんだ?」
貴志の言葉に理香は、何かをグッと堪えるように唇を噛む。
「あなたに言っても、きっと分からないわ。恵まれた環境にいた……あなたには……」
理香はそんなことを呟く。
それは違う――わたしは、そう声を出して反論したかった。
けれど、どうしても声が出ない。
貴志は、昏い世界でひとりで佇んでいたのだ。
理香が言う恵まれた環境というのが何をさすのか、わたしには分からない。
けれど、それが愛情というのならば――恵まれてなどいなかった。
理香が貴志の言葉に戸惑いを見せ、その一瞬の逡巡を見てとった貴志が、その隙をつく。
理香を引き寄せ、その口で理香のそれを封じたのだ。
驚いた彼女が、咄嗟に腰を浮かす。
貴志はその瞬間を逃さず、形勢逆転で彼女を組み敷いた。
「もし、多少でも好意があるのなら、こんな真似はできない――本当に大切なものには、触れることでさえ恐ろしくなる……壊してしまうかもしれない……それが怖くて……」
貴志が左手で理香の両手をつかみ、彼女の頭上で押さえ込む。
「お前が抱けと言うなら、俺はお前を……抱く。他の誰かを、お前に投影して、身代わりにするだけだ。心はそこにない。お前がそんなに安い女だというなら――俺もそれを利用させてもらう。お前にそれが、許せるのか?」
貴志が理香の上で、ワインレッドのネクタイを右手で緩め、ゆっくりと解いていく。
それはとても短い時間の出来事。
けれど、永遠のような長さにも感じた。
貴志の非情とも思われる、理香に向けられたこの言葉。
これは、おそらく……彼女に対する彼が与える最後の『慈悲』――だ。
プライドの高いといわれる彼女が――そのプライドの高さ故に――貴志の腕の中から逃げ出すチャンスを与えているのだ。
その言葉を耳にした理香は、怒りのボルテージを上げると同時に、貴志の左手を容易に振りほどいた。
やはり貴志は、本気で理香の手を押さえ込んでいるわけではなかったようだ。
もし貴志が――男が、女を屈服させようと本気で組み敷いていたのなら、女の力では逃げ出すことは不可能に近い。
理香は「馬鹿にして……っ」と吐き捨て、そして――
ドカッ――という音が室内に響いた。
それと同時に、貴志が咳き込んでいる。
どうやら腹部を殴られたようだ。
「おま……っ 拳で右ストレートかっ まったく……いや、その方が……昔のお前らしいよ。
ああ……俺の知っている、昔のお前だ――理香」
貴志は咳き込みながらも、彼女のことを今日初めて名前で呼んだ。
「おあいにく様。身代わりになるほど落ちぶれちゃいないわ。貴志、あなたのそのお綺麗な顔を殴らなかったことだけでも褒めてほしいものだわ。このっ 外道が!」
貴志は、昔を懐かしむような声で小さく笑う。
「服を着たら、あの森の東屋に行ってやれ。あいつが待ってる。お前のことを――」
理香は、眉間に皺を寄せ、まるで毛虫でも見るかのような表情で貴志を見据える。
「わかったわよ。行くわよ。まったく、あいつも過保護なんだから」
理香は服を整えると、そのまま窓から出ていこうとする。
「貴志、ごめんなさい。……あの夜、わたしを抱いてくれたのは、あなたの優しさだってわかってるから――今日のあんたを見ていたら、なんだか少し、目が覚めた気がするわ。もう一度、自分の進む道を考えてみる。ありがとう。悪かったわね」
「玄関から出て行けばいいものを」
貴志が少し呆れた声で、理香に言う。
「だって、こっちの方が、昔の――あなたが知る、わたしらしいでしょう?
じゃあね。あんたも犯罪とか起こさないようにね。まだ子供よ? あの子」
「うるさい。早く行け! あいつが心配してるぞ」
窓枠をまたいだ理香が「あ、そうだ」と言って、ポケットから名刺のようなものを取り出す。
「はい、これ、連絡先。また気が向いたら、昔みたいに、みんなで会えるといいわね。連絡待ってるわ。昔の悪友として――じゃあね」
そう言って、理香は窓から地面にヒラリと飛び降りた。
その瞬間、理香の驚いた声が室内に届いた。
「げっ 柊紅子! のぞき見とは趣味が悪いわね。
そんなに心配しなくても、もう貴志に手を出したりしないわよ。でも、彼の本命はあなたじゃないみたいよ?」
クスッと笑ってから、理香は去って行った。
その笑いに、紅子に対する侮蔑の色はない――
…
「貴志、見事なあしらい方だったぞ。プライドの高い女の扱い方まで心得ているとは、大人になったもんだな。紅子おねーさんは、かなり驚いている」
紅子は貴志に対して、心底感心しているようだ。
そして、わたしはと言うとクローゼットから引きずり出されて、現在、床にて正座中だ。
いつからわたしがいることに気づいていたのか、と訊いたら、理香に右ストレートを打ち込まれたあたりからだったらしい。物音でもさせていたのだろうか。
理香と貴志は、『ペルセウス』で歓談した二人組のお姉さん方と同じように中学時代から、夏のミュージックキャンプで顔を合わせる仲間だったようだ。
詳しいことは分からないが、彼女が男漁りをはじめたのはここ数年のこと。
それまではそんな素振りさえみせず、ただ音楽に打ち込むだけの、どちらかというと腕白で快活――超がつくほどの熱血少女だったということが分かった。
何が彼女を変えてしまったのだろう。
それはわたしには分からないけれど、とりあえず嵐は去った……のだろうか。
それにしても、貴志よ。
お前のその、女をあしらう技術は何処で身に着けたのだ。
紅子ではないが、唯々ひたすらに感心するばかりだ。
対して、紅子はホッとしたように貴志の頭を撫でる。
「だが、良かった。もし万が一、お前があの小娘を振り払えなければ、わたしがお前との濡れ場もどきでも演じなければならんと思っていたからな」
貴志が紅子の科白に「勘弁してくれ」と顔を覆う。
「大丈夫だぞ。克己くんには許可を取ってある。弟分を助けるためだからな」
紅子よ、克己くんとは、誰ぞや?
貴志は、ますます頭を抱え込み。深い深い溜め息をついた。
「美沙の旦那に引き続き、紅の旦那にまで俺は誤解されて恨まれるのか……」
そう言って彼の口から乾いた笑いが洩れる。
「いや、大丈夫だ。克己くんは、あの理香から、一度隙をつかれて唇を奪われているのだ。『紅ちゃん、ごめん。本当に申し訳ない』と、それはそれは猛省していたぞ。だから、今回、お前が例年と違ってわたしに伴奏を打診した時点で、何かあるかもしれん、と克己くんには話をしてあったのだよ。
まあ、今日のイロイロで、お前はわたしの愛人だ、という噂が流れても仕方がないだろうがな。お前はしばらく、わたしのツバメ扱いだ。それは、面白いな! あはははははっ」
紅子、お前、本当に心から楽しそうだな。
紅子が理香を毛嫌いし挑発しまくるのは、克己くん――もとい旦那さんを食い物にされたから、なのだろうか。
――しかし、貴志が紅子の愛人か。
ああ、でも、今日の演奏は、そんな推測を与えて誤解されてもおかしくない、刺激たっぷりの演出だったな。
『葛城貴志、柊紅子愛人説』
想像すると、ちょっとうけた。
ものすごく弄ばれていそうに見える――貴志が。







