【真珠】靄の中の邂逅
貴志に『星川』まで送ってもらうと、お祖母さまが出迎えてくれた。
穂高兄さまは厳しいレッスンで疲れてしまい、既に就寝してしまったとのことで、寝顔しか見れずとても残念だった。
貴志はお祖母さまと二言三言の会話をした後、あの森の奥の別棟へと帰っていった。
最近ずっと一緒にいたので、不思議と寂しさを覚える。
移動で疲れていたわたしは、その後お風呂に入って寝る準備を終えると、すぐに眠ってしまったようだ。
…
翌朝は、かなり早くに目が覚めた。
お祖母さまもお兄さまも、まだ夢の中だ。
カーテンの奥に潜り込み、窓から白い靄のかかった森を眼下に眺める。
スズリンとハルルンとは、早朝、朝靄の中で遊ぶことが多かった。二人共、お揃いのダボッとしたナイトウェアを着ていて、それが妖精っぽさを醸し出していた。
会えるだろうか?
今年も来ているのだろうか?
わたしは服を着替え、彼女たちに会うため、森の中のガゼヴォに向かった。
フロントに寄り、わたしは森の東屋に行く旨を伝えてから外へ出る。
『天球』では、いつも森のガゼヴォがわたしのお気に入りの遊び場所だった。お祖母さまもわたしの居場所は分かっていると思うが念の為だ。
外はまだ薄暗く、深い靄がホテルの敷地内に立ち込めている。
チャペル『天球館』を横切り、その奥へと続く小径を進む。
小さな電灯が足元を照らすように輝く。
その光が靄の中で小さな珠のように連なり、わたしを森へと誘う。
妖精の棲む森への入り口のようで、とても神秘的に映る。
少し進むと、微かに音楽が聴こえた。
音楽家の方が、早朝練習でもしているのだろうか。
あれ? この音は。
届いた音色に耳を傾ける。
これは、バイオリンの音色だ――
どこから届いてくるのだろう。
聞き覚えのあるフレーズだ。
「Bach Double」
わたしは咄嗟に呟く。
とても規則正しい、完璧な音で弾かれた、ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲の『二つのバイオリンのための協奏曲』だ。
これは、セカンドバイオリンのパートだろうか。
石造りのチャペルと、朝靄の森、朝日が昇る時間になんとなくピッタリの荘厳な曲だな、と思い、耳で音をとらえながらガゼヴォへと急ぐ。
スズリンとハルルンは、遊んでいるだろうか?
それとも、まだ寝ているのだろうか?
まさか、今年は来ていないなんてこと、ないよね?
そんなことを考えながら、更に森の奥へと進んでいく。
バイオリンの音色が流れてくる先も、どうやらガゼヴォの方角からだ。
何かを強く望むような、どこか彷徨うような――少し迷いのある、そんな音色。
靄に包まれたガゼヴォに、朝日が少しずつ差し込む。
まだ完全な日の出にはならないが、夜明けが近い。
この世の物ではないような錯覚を覚える、とても幻想的で美しい光景だ。
荘厳で厳粛な雰囲気の中、少しずつ陽光を纏った靄が周囲に漂いはじめる。
その中に、その曲を弾く人物の影が浮かび上がった。
けれど白い紗幕に阻まれて、全容は見えない。
あれは――ハルルン……?
何故そう思ったのかは、わからない。
ハルルンは笑わない、喋らない、氷の花のような女の子。
彼女の笑顔が見たくて、どうしたら笑ってくれるのかと頑張るのだけれど、未だに一度も目にしたことはなかった。
一緒に遊んだと言っても、実際にはわたしとスズリンが遊んでいるだけで、ハルルンとは会話らしい会話さえしたことはなかったかもしれない。
彼女のその完成された美しさから、お兄さまのお嫁さんになってほしいとさえ思っていた。
浮かび上がるバイオリンを構えるシルエットの美しさと、何故か気になるその音色に引き寄せられる。
その人物の近くへ歩を進めた時、知らず足元の枯れ木を踏んでしまった。
パキリッ――
その音は、思ったよりも大きく森の中を木霊する。
わたしはビクッとして足を止め、目を閉じる。
「誰……?」
感情が伴わないような透き通った中性的な声が響いた。
「ご……ごめんなさい。邪魔をするつもりじゃ……なかったの」
わたしは慌てて、消え入りそうな声で謝る。
演奏の邪魔をしてしまった。どうしよう。
誰何の声は聞こえたが、姿は靄でボヤけてハッキリとは見えない。
「その声……シィ……か?」
え? わたしの……ことを、知っている?
名前を呼ばれたことに驚いて、顔を上げた瞬間。
黎明を切り裂く光が、
靄の中を一直線に駆け抜けた――日の出だ。
わたしの後方より、線状になった光線が幾筋も急速に生まれ、バイオリンを弾く人物へと注がれていく。
突然、風が吹き抜け、靄を森の奥へと追いやった。
わたしは大きく目を見開き、その声の主を茫然と見詰めた。
動くことさえできなかった。
この顔は、わたしのよく知る、氷の花の妖精――
「ハル……ルン……?」
わたしの記憶の中で「彼女」の少し長めだった髪は、今は短くなり、妖精のように見えたナイトウェアも着ていない。
今までお目にかかったことのないほどの綺麗な少女だと思っていた。
けれど、いま、突然現れたのは――完成された美しさから醸し出される、氷の花の如き高潔さを纏った――ひとりの少年。
わたしはこの少年時代の――「彼」のスチルを知っている。
そう、彼は――『この音』の攻略対象者・メインヒーローの鷹司晴夏。
わたしの目の前には、その彼の幼き日の姿があったのだ。







