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【真珠】『救世主―Messiah―』

 美沙子ママが奏でる音色を聴いたとき、これはただの楽器ではないと薄々感じていた。



 イタリア──クレモナの名工(めいこう)アントニオ・ストラディバリ。

 彼とその息子が製作した弦楽器を総称して、世間一般にストラディバリウス(略してストラド)と呼んでいる。


 その中でも最高傑作だと謳われているのが、1715年前後に作られたドルフィン、アラード、メサイアと呼ばれる三挺──三大名器と呼ばれるそれらの中にあって、更に異彩を放つ特別な存在が『メサイア』だ。


 なぜ特別なのか。

 『メサイア』は、ストラディバリが生涯手放すことなく手元に置きつづけた楽器であり、その後製作されたバイオリンの原型になったとも言わているからだ。


 ちなみに、伊佐子がいた世界で『メサイア』は、英国オックスフォードにある『アシュモリアン美術及び考古学博物館(Ashmolean Museum of Art and Archeology)』に寄贈され、現在も展示されている。


 その博物館で、わたしは本物の『メサイア』を目にしたことがあった。高校時代に所属していたユースオーケストラの毎年恒例夏期演奏旅行に参加した折、展示用のガラスケース越しではあるが本物の『メサイア』と対面したことがあるのだ。


 三百年の時を経た楽器のため、経年劣化している見た目を想像していたのだけれど、その予想に反してメサイアは、まるで生まれたての若い楽器のように見えた。演奏自体が殆どされたことがなかったので、新品同様の状態だったのだろう。


 美しさに心を奪われ、わたしは自由時間の間中ずっと、その展示の前から離れることができなかった。時間を忘れ、『メサイア』の色艶形のすべてが、この目に焼き付くまで眺めた。


 演奏ツアーから帰国したわたしは『メサイア』の音を聴いてみたくなり、古い録音がどこかに残っていないかと探してみたのだが、残念なことに見つけることはできなかった。


 博物館で永続保存されているため、今後誰かが奏でる可能性は低く、その演奏を耳にする確率もゼロに等しい現状を知り、かなり落胆した覚えがある。


 『メサイア』の音色について知り得た情報は、高名なバイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムが書簡の中で「甘美さと崇高さが組み合わさった音色に胸打たれた」との感想を述べているもののみだ。


 その音色を耳にする機会に恵まれた人間は、この世にどれだけいたのだろう?

 わたしはその幸運な人々を羨み、メサイアの音色に焦がれた。

 叶わぬ願いほど望んでしまうのは人間の(サガ)なのかもしれない。


 生涯耳にすることはできない。そう諦めていたのに、まさか『この音』の世界で──しかも、中学生とはいえ実の母の手による演奏で、『メサイア』の音色を聴くことになるとは正直思いもよらなかった。




 わたしと母の遣り取りを耳にした車内は、しんと静まり返る。


 子供のわたしが何故そんなことを知っているのか?──そんな小さな疑問よりも、知らされた内容の大きさに全員の意識が向いているようだ。


 まず最初に動きを見せたのは兄だった。自分のスマートフォンを取り出し、何かを検索し始めた。

 打ち込んだワードを確認すると、『Strad』『Messiah』 とあった。


 兄の様子を横目に、母の双眸をルームミラー越しに見つめ、わたしは楽器の所在を確認するために再び問う。


「今……こちらの楽器は、どちらに保管されているのですか?」


 母が以前使っていたというフルサイズのバイオリンを祖母から見せてもらったことがある。だが、『メサイア』とはまったく違う色合いだった。


 ──「自宅の音楽ルームよ」とか、まさか言わないよね?


 でも、あそこで『メサイア』を見たことはない。


 大人だけしか知らない隠し扉や隠し棚があると言われれば話は別だが、月ヶ瀬家の音楽ルームにそれらしきアヤシイ場所は見当たらない。


 単にわたしが見落としているだけで、今も『メサイア』は自宅で眠っているのだろうか。


 日本の高温多湿な気候は弦楽器にとって適切とは言い難い。けれど、音楽ルームにあるのならば状態としては悪くないはず。


 あそこは弦楽器専用に温度と湿度が調整された特別な部屋──だから、保存についての懸念はそれほどない。



 でも、そういう問題ではないのだ。



 わたしのその思いを代弁するように、母が答える。


「バイオリンをやめた年の夏に、アルサラームの王宮に長期滞在したことがあったの。その時、国王陛下とお話をして、預かっていただくことにしたわ。もし必要な人物が現れたらその奏者に託したいと、お願いをして──あのバイオリンは、名のあるバイオリニストに貸与されるか、然るべき場所に預けて後世に残すべき──人類の至宝。そう言っていいくらいの代物だから」


 その言葉を聞いたわたしは、ホゥと息を洩らした。母が『メサイア』の希少性を正しく理解していることに安堵したのだ。


「では、今はアルサラームに?」


「ええ、そうよ。アルサラーム神教上で『楽器』は『聖具』──今は教皇聖下のいらっしゃる神殿の聖具室で、大切に保管されているはずよ」


 母が言うには、アルサラームでは演奏自体が神聖な行為と見做され、楽器は神と人を繋ぐ媒介として大切に扱われているらしい。

 だからあの国で、楽器を粗末に扱う人はいないとのこと。


 ──楽器が『聖なる物』として扱われているとは。

 それは頼もしい!


 そう言えば先日の『祝福』騒動で、神への『供物』として音色を捧げていたことを今更ながら思い出す。


 それに教皇聖下の管轄ということは、エルがその聖具を管理する最高責任者ということだ。

 彼ならば『メサイア』を正しく扱ってくれるのは間違いない。



 安心したところで、今度は好奇心が生まれた。


 ──本物を見てみたい。

 正直に言えば実物に、ちょっぴり触れてみたい。


 けれど、子供のわたしが興味本位で触って許されるものではないことも理解している。


 俗物ゆえに、貴重な楽器を所有する欲に目が眩みそうになるものの、理性ではその辺りのことはしっかりと弁えているつもりだ。


 それでもいつか、わたしがその楽器に選んでもらえる未来が訪れたとしたら──是非とも弾いてみたいという、そんな野望を持つくらいは許されるはずだ。


 叶う叶わないのどちらにしても、大きな夢を持っていけないことはない。


 でも──エルかラシードにお願いして、ちょっぴり拝ませてもらうことはできるだろうか?

 そんな邪な気持ちもポコッと芽吹いたが、やはり早々に摘み取ることにする。



 母も言っていたではないか。


 身の丈に合わないものに手を出してはいけないと。



 運転中の父は、母とわたしの話を聞くうちに、少しずつ青ざめていった。

 ネットで『メサイア』についての情報を調べていた兄にしても同じだ。


 彼らはストラディバリウスについては、その名称自体は知っていたようだが、その中でも名器と呼ばれる幾つかに、特別な愛称が付けられている事実までは知らなかったのだろう。


 ひとつ、気になることがあったので母に訊ねてみた。


「お母さま。このバイオリンが『メサイア』だと早乙女(さおとめ)先生はご存知だったのですか?」


 わたしが師事する予定の早乙女功雄(いさお)教授は、中学生当時の美沙子ママの師にあたる。


 この演奏が『メサイア』によるものだと、早乙女教授から人伝に広まり、音楽関係者界隈に周知されていたとしてもおかしくはない。その噂が巷間に流れれば、大変な事態を引き起こすのも必至──なのだが、動画の再生回数から言ってもごく普通で、バズった形跡すら見当たらない。


「早乙女先生はご存知ないのよ。レッスンには自分のバイオリンで通っていたし、このバイオリンは自宅でしか使っていなかったから。それにこの後、先生と会うことすら拒否していたから……だから、『メサイア』である事実を知るのは──わたしと葵衣だけ……」



 母の話によると、葵衣の楽器も『メサイア』には敵わないけれど、相当良いものだったそうだ。

 なんでも、葵衣は祖母との賭けに勝ち、その楽器を自らの実力で手に入れたらしい。


 賭けとは──初出場のコンクールで一位入賞し、勝ちを収めた暁に、望みのバイオリンを購入してもらうというものだったようだ。


 但し、もしも一位を獲得できなかった場合は、葵衣が祖母の出した条件を飲むことになっていたとのこと。


 結果は、葵衣の勝ち。


 そして彼女は見事、望みの楽器をその手につかんだのだと言う。


 当時、葵衣は小学校高学年。

 その年齢で、祖母と対等に渡り合うことができたのだから、機転のきく賢い少女だったに違いない。



 母曰く、中学生の頃の葵衣と母のバイオリンの腕は、ほぼ互角だったそうだ。母の主観も入っているから、どこまで信じていいのかわからない。

 でも、本当のところは、母の腕の方が葵衣よりも上だったのではないかと、密かにわたしは思っている。


 そうでなければ、『メサイア』をここまで弾きこなすことはできないだろう。

 それも自分のバイオリンと同時進行で使用した上で、完璧に弾きこなしているのだ。


 バイオリンは同じ形をしているように見えるけれど、実際には各部位の長さや厚みにはそれぞれの個性がある。

 ブリッジの僅かな高さの違いによって、弦の抑え方も音色だって変わる。しかも、弓を引いた時に鳴る位置も、個々で微妙に変わっているのだ。


 母はそれぞれの楽器と瞬時に対話し、その良さを引き出す能力にも長けていたのかもしれない。



 紅子が我が家の居間で口にした言葉を思い出す。

 たしか「美沙子には一位になってやるぞ、葵衣に勝つぞ、という気概がなかった」という内容だった。


 幼き日の美沙子ママは、音を奏でることだけを愛する、音楽好きの少女だったのだと思う。


 それに対して葵衣は、一位を獲り続けるために必死に食らいつく理由を、その胸に秘めていたのかもしれない。





 コンコンッ──突然、車の窓ガラスが叩かれた。


 驚いてそちらに目を向けると、運転席の外側に、涼葉(すずは)を抱えた克己(かつみ)氏が立っていた。


 周囲を確認すると、いつの間にやら我が家の車は鷹司(たかつかさ)邸のパーキングスペースに到着していたようだ。


 なかなか車から出てこない月ヶ瀬家面々に痺れを切らした涼葉が、克己氏をせっつき、わたしたちを呼びにきたのだと語る。


 穏やかな笑顔を浮かべた克己氏は、両親に向かって現在の紅子と貴志の動向を伝えていた。


「さっき紅ちゃんから連絡があって、ホテルを出て貴志くんと一緒にこちらに向かっているって──外は暑いから、家の中へどうぞ」



 車から降りた途端、蝉のけたたましい鳴き声に包まれた。

 青々と葉を茂らせた街路樹が、その声の出どころのようだった。



 蝉時雨に背中を押されるようにして、わたしたち月ヶ瀬家一行は鷹司邸に足を踏み入れた。






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