【真珠】あんなこと『面倒事』そんなこと 中編
「穂高兄さま──出くんと忍は、海外で暮らしているんですって」
まず最初に、久我山兄弟の生活環境について説明しておいた方が話が早いだろう──そう踏んだわたしは、兄にその情報を伝えたのだ。
「海外……」
それだけ呟いた兄は、何事かを考える素振りを見せた。
一瞬の静寂の後、「なるほど……続けて?」と、その先を促される。
ソファ周辺に、兄を発信源としたそこはかとない圧迫感が漂っているのは、多分気のせいじゃない。
だが、気圧されている場合ではないのだ。
気を取り直したわたしは、勇気を振り絞って口を開く。
「忍は、親愛の気持ちを込めた挨拶をしてくれました。だからわたしも『仲良し』を強調しようとエアキスでお礼をしたんです。それが別れの挨拶に、あんな方法を選んだ理由です」
この微妙な雰囲気のなか、一気に説明完了まで漕ぎつけた自分に拍手を送りたい。
まあ実際には、ハグとエアキスの理由は「今後も、敵対するつもりはない」との想いを態度で示しただけ……なのだが、そのまま真実を伝えてしまうのは、子供として終わっている気がする。
よって、不純な動機による下心は、行動理由の説明から割愛させてもらったのだ。
次の瞬間、兄の眉間に皺が刻まれる。
「むこうはそういう意図で抱きついだわけじゃないと思うけど……真珠がそう思っているならそれでいいよ。でもね、君からすすんで『仲良し』を強調する必要が、本当にあったの?」
何処か棘のある口調が気になったものの、その後も兄は矢継ぎ早に質問を投げかけるため反論ができない。
「真珠はこれからも『仲良し』になる人間全員と、あの挨拶をするつもり? さっきの僕の話は、ちゃんと聞いていたのかな?」
余程わたしのことを信用していないのか、それとも単に心配性なだけ?──その両方とも受け取れる兄の口振りに、ついこちらもムキになって返答してしまう。
「勿論、お兄さまの話は聞いていました。それに、わたしだって、人を選ばず、無闇矢鱈に抱きつくような真似はいたしません。あの二人は──わたしにとって『特別』な存在だった……だから、その気持ちをサヨナラの挨拶に込めただけです」
そう──彼らは『攻略対象』という、この世界の中でも特殊で、特別な存在だ。
しかも『攻略対象』は押し並べて、『悪役令嬢』の運命を左右する可能性を持っている。
それも、最悪の事態へ進む際の──引導を渡す役割だ。
彼ら全員が、わたしの人生に少なからず影響を及ぼす人間であることに間違いはない。
だから、今後も気を緩めず、心して対応していかなければならないのだ。
言うなれば、要注意人物という意味でも、わたしにとって、ある種『特別』な人間と言えよう。
「ねえ、真珠。あの二人が『特別』って、どういうこと?」
兄がわたしの両目を見つめたまま、静かに問う。彼のほうから一歩引いた態度に改めてくれたようで、語気もトーンダウンしている。
再び兄妹喧嘩に発展し、話が続けられなくなる状況を避けるため、兄は自分が先に折れることを選んでくれたのだろう。
そのおかげで、わたしも頭が冷え、落ち着きを取り戻すことができた。
「今は……詳しく申し上げられません。でも、ひとつだけお伝えできることがあるとすれば──『久我山出』と『久我山忍』は、今後わたしの人生に大きく関わる人物であり──未来の……わたしの命運を握る可能性を持つ存在……つまりは──大切で……重要な友人なんです」
それだけ伝えると、わたしはソファから立ち上がった。
両手を後ろ手に組んでクルリと振り返ると、兄の顔が視界に入る。
相変わらず訝しげな表情のままだが、それでも、わたしの話を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けてくれる様子は伝わってきた。
あとひとつ──理解されなくとも、識っていてもらいたい内容を、この会話に織り込んでいく。
「あの兄弟がわたしにとって、どのくらい特別かというと、お兄さまをはじめ、ハルやラシード、それから──貴志にも等しい存在だと言えます。だから今後も、彼らとは懇意にしておきたいのです」
敵対するのではなく、彼らと親睦を深めることが、唯一自分の身を守る方法なのだから。
伝えた内容に驚いたのか、瞠目した兄が腰を浮かし、そのままわたしの隣に並び立った。
「ねえ、待って……貴志さんと、同じくらいって……いま……言った?」
わたしはコクリと頷いてみせる。
『攻略対象』全員は、等しく重要な存在だ。
貴志ひとりというよりは『攻略対象』すべてが特別であるという意味なのだが、兄は貴志にこだわっている。
それはおそらく、彼とわたしが婚約者の間柄であり、わたしが貴志をこの上なく慕っていることを、彼がよく理解しているからなのだろう。
けれど、今回わたしが語った『攻略対象』の重要度は、色恋とはまた別の尺度で測ったもの──彼ら全員の、この世界における特殊性を意味している。
でも残念ながら、そこまでの深い意味は、兄に伝わらないだろう。
複雑な感情を瞳に宿した兄は、わたしから目を逸らした。
「──それほど……真珠にとって、あの二人は特別な人間ということなんだね。わかったよ。君が納得しているなら、それで……いいんだ」
歯切れの悪い言い方が気にはなったけれど、兄は息を吐くと、そのまま謝罪の言葉を紡ぎはじめる。
「責めてしまって、ごめんね。真珠がそのつもりなら、僕もその気持ちにそって対応させてもらうよ。だから安心して」
なぜ、こんなにも淋しそうな表情を見せるのだろう。
不思議に思ったわたしは、その両目を覗き込んだ。
既に彼は、取って付けたような笑みをその面に貼り付けている。
先ほどまで見せていた苛立ちすら、無かったことにする──綺麗な微笑みだ。
その態度に違和感を覚え、わたしは兄の顔に右手を伸ばす。
触れた頬からは、あたたかな体温が伝わった。
「お兄……さま? どうかされましたか?」
わたしの問い掛けに、兄は首を横に振る。
彼の掌が右手を包み込むよう、優しく重ねられた。
「僕は大丈夫。少し……驚いただけなんだ」
兄の言葉に、内心ドキリとする。
彼が「驚いた」と言ったのは、妹が未来の予言めいた怪しげな話を口にしたから?
「命運を握る」なんていう科白を、熱くなってつい口にのせてしまったけれど、よくよく考えてみれば独特の言葉遣いだったのかもしれない。
そう──まるで、悲劇のヒロインのような言い回しだ。
現実と妄想が入り混じる、幼い子供特有の空想話だと思われてしまったのだろうか?
けれど、既に話してしまったのだから、今さら後戻りもできない。
わたしが抱える秘密を知らない兄からしたら、怪しさ満載、奇想天外の話に聞こえてしまうのだろう。
夢見がちな妹の世迷言だと一蹴されてしまうのならば、この話はここで終わりだ。
わたしは固唾を飲み込み、兄の次なる反応を黙して待った。
…
けれどこの後──兄が口にした内容に、わたしは度肝を抜かれることになる。
己の限られた思考回路では到底辿り着けない展開が、この先に待ち構えているなんて、誰が想像できただろう。
わたしがとある『面倒事』に巻き込まれていることを知るのは、今からほんの数分後の話──だ。







