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【真珠】あんなこと『面倒事』そんなこと 前編


 わたしの頬の上を、兄の親指が何度も滑る。

 まるで、指の腹で頑固な汚れをこそげ落とそうとしているような動きだ。


 先ほど「どうして、あんなことをしたの?」と問われてからずっと、この状態がつづいているのだが──兄の言動のすべてが謎だった。


 視界のすみを動く指が思考の邪魔をしてくるので、そろそろ止めてもらいたいのが正直なところ。


 質問された「()()()()()」がどんなことなのかと自問自答中だというのに、まったく集中できないのだ。

 下手をすると無言の睨めっこをしたまま、日が暮れてしまうかもしれない。まだ午前中だけど。


 このままでは埒が開かないと、往復する指をつかんで動きの阻止を試みたところ、やっと兄はその手を自分の膝の上に戻してくれた。


 もっと早くにこうしていればよかった。ホッも息を吐くの同時に、疑問も生まれる。


 ──わたしは頬に、汚れでもつけていたのだろうか?


 美容師さんに整えてもらったばかりなので、そんなことはあり得ないと思いつつ、念のため兄に確認をとる。


「あの……汚れていましたか? わたしの頬……」


「汚れ? そうだね。目には見えないけど」


 わたしの声を拾った兄が、そう答えたのだが、まったく意味がわからない。

 そもそも目に見えないのなら、それを汚れと呼ばないのではないか?


 ──むう……。

 これは、なんだかちょっぴり面白くないぞ。


 兄の周囲に漂う隠しきれない苛立ちが、いつの間にやらこちらに伝わり、わたし自身も感化されていたのだろう。思わず不服そうな眼差しを返してしまう。


 ここで『真珠』の癇癪がムクリと鎌首をもたげ、助走開始だ。


 待て、わたし!

 この場で、兄と喧嘩はしたくない。


 幼く未熟な心を宥めてみるも、完全なる制御はできず──すべてを止めることはできなかった。


 やめておけばよいものを、兄への抗議を行動で示してしまったのだ。


 唇をグイッと前に突き出し、恨めしげな眼差しで見上げれば、あっという間に不満顔が完成だ。

 全力で兄に歯向かっていく、この表情筋が憎い。


 歯止めがきかない自分の顔を、両手で覆いたい気分だ。


 反抗する態度を見せた妹へのお仕置きなのか、アヒルの(くちばし)状になった部分を、兄の指先がヒョイッと抑え込む。


 四本の指が、上下左右からわたしのお口をガッチリと閉じ、このままでは口を開けることすらできない。


 珍しく虫の居どころの悪い兄の様子にも驚いたけれど、四六時中機嫌の良い人間なんているわけがない。時には彼だって、そんな気分にもなるのだろう。


 睨みつけるようになってしまった視線を、兄ではなく指先へと向けた。

 その際、鼻の両穴からフンスッと勢いよく呼気を吹きかけてしまったのは、所謂出来心というやつだ。



 そういえば、伊佐子の記憶が加わる以前──兄妹喧嘩をしたときはこうやって、尖らせた唇をよく挟まれたものだった。

 毎回、「大きな声を出さないの!」と同じ注意を受けていた気もするが、今日のわたしはまだ(わめ)いてすらいない。



 兄は掴んだわたしの唇を、ブニュブニュと無心で揉みつづけている。


 子供の肌は弾力もあって柔らかいので、ついつい触りたくなる気持ちも分からなくはない。だが、その感触を楽しんでいる訳でもなさそうだ。


 どちらかと言えば、兄はかなり真剣な眼差しで、わたしの顔を凝視している。


「真珠──これからは男の子に、抱きついたりしたらいけないよ。それから、顔を近づけるのもやめよう?

 あんなことするから『面倒事』を自分で引き寄せてしまうんだ」


 『面倒事』が何を意味するのか分からなかったが、「あんなこと」については遅ればせながらも察することができた。


 どうやら兄は、忍に対してのわたしの振る舞いを咎めているようなのだ。


 確かに、自分の妹が誰彼構わず異性と触れ合う人間に成長してしまったら、実兄の立場としては非常に頭が痛いのだろう。

 月ヶ瀬家令嬢であるわたしが、そんなトンデモ人間になり下がってしまったら、世間様への外聞もよろしくない。


 よって、将来の醜聞を憂えた彼は「軽率な真似はしてくれるな」と、貞操観念ユル目な愚妹爆誕を阻止するため、品行指導を試みている最中なのかもしれない。多分。


 でも──お兄さま。

 どうか、ご安心あれ。


 わたしだって月ヶ瀬グループ総帥の孫で、次期跡継ぎと謳われる誠一パパの娘だ。

 それなりのプライドは持っている。


 だから、心配しなくても大丈夫ですよ──との気持ちを込め、兄の両目をジッと見つめる。言っておくが、決して睨んでいるわけではない。

 唇をガッチリとロックされているため、声に出して伝えたくとも、目力で訴えるしかできないだけだ。



「真珠はね、自分のことをわかっていないよ。いまは小さいから、まだいい。でもね、これから先あんなことをしたら、却って傷つけられて嫌な思いをする可能性だってあるんだ。君は、人目を引く女の子なんだから、特に気をつけないと。……本当に心配しているんだよ?」


 叱っていると言うよりは、わたしの身を案じているからこそ出た言葉だと気づく。

 兄の科白に込められた想いを受け取り、腫れ上がっていた心が急速に癒され、苛立ち自体がしぼんでいく。


 「人目を引く女の子」と言ってくれた言葉も、素直に嬉しかった。

 身内贔屓と言う名の特殊フィルターが作用してのことだと、勿論理解はしている。けれど、それでも嬉しいことに変わりはない。


 本当は大喜びしたいところなのだが、残念なことに、わたしは己の身の程というものをしっかり弁えているお子サマなのだ。


 そう──『月ヶ瀬真珠』は、所詮しがない一介の──ショボイ悪役令嬢にすぎない。


 もしも心配する相手が『調部(しらべ)愛花(ういか)』だとしたら、兄が言うような危惧も納得できる──が、わたしに関しては、その憂慮自体が完全なる取り越し苦労と言えよう。



 ただ、彼のこの一連の発言から、兄の心のなかで育っていたであろう妹に向けた感情が、ほんの少し垣間見えた気がした。

 その想いの正体を、見定めようとしたところ──兄の口から溜め息がこぼれ落ちる。


「ごめんね……。君に対して怒っている訳じゃないんだ。真珠が大切だから心配なだけ──」


 そこで言葉を止めた兄は、なぜか逡巡する様子を見せ、それから躊躇いがちに科白を紡いだ。



「あのね。これだけは信じて──何があろうと僕は、真珠のことを裏切らない。だから、僕のことも怖がらずに信用してもらいたいし……なんでも相談してほしいんだ。

 翔平さんが来たあの日──僕は焦るあまり、失敗してしまった。あの時から君は、僕のことを……怖がるようになってしまったから……。でもね、守りたいと思っているのは、本当の気持ちなんだ。

 だって僕は──君の唯ひとりの『お兄ちゃん』で、真珠は僕の……大切な妹なんだから……」



 久我山兄弟との遣り取りに、苦言を呈される形から始まった兄妹二人きりの時間。その中で、彼が本当に伝えたかったのは「もっと信用して、なんでも相談してほしい」という部分だったのかもしれない。



 ──穂高兄さまは、すべてお見通しだったんだ。

 敵わないな、との思いが生まれる。


 『伊佐子』の名を出されてからこの方、わたしは兄のと会話を恐れ、二人きりになる状況を極力避けていた。


 だから彼は、その名に触れることはあっても、無理やりこじ開けて踏み込む選択をしなかったのだと、今更ながらに理解する。


 兄の本心としては、今すぐにでも問い詰めたい心境なのだろう。けれど、それをしないのは、わたしの心の準備が整うのを待っているから。


 興味本位で秘密を探ろうとしているのではなく、力になりたいから話してほしいと──彼は、そう言ってくれたのだ。


 本当は、分かっていた。

 尻込みをして、心の底から兄を信頼できていなかったのは──単なるわたしの弱さだと。


 そんなわたしに、兄は自分の気持ちを再び伝えてくれたのだ。


 その言葉は純粋で温かく、兄の(まこと)の心であると──この胸の中心が囁く。


 目の前にいる兄が、わたしへと向ける感情の正体は、おそらく──家族愛。

 それも、かなり深い愛情なのだと、真摯な態度から、自ずと伝わってくる。




 伊佐子が『この音』の世界で目覚めてから今日まで、影ながらつづけた関係改善の努力は、無駄ではなかったようだ。


 最初は自分の保身のためにしていたこと。けれど今は、それを通じて育むことのできた確かな絆を、兄との間に感じることができる。



 最高の兄妹関係を築けた──そう確信した小さな胸に、歓喜の風が流れ込む。


 何よりも──妹として「可愛い」と、「大切だ」と、真剣に伝えてもらえたことが嬉しい。


 いつの間にか、こんなにも深く兄から愛されていたのだ。


 兄がわたしを想ってくれるのと同じように、わたしにとって兄は──大切で、大好きで、とても愛しい存在なのだ。


 幸せな気持ちが溢れ、身体中が熱を持ったような感覚に包まれる。

 目もとが弧を描き、口角が自然と上がっていく。


          …


 ──よし!


 愛する兄の心に応えるべく、ここはわたしが彼の抱いた懸念を、早急に取り除く必要があるだろう。


 いや、兄の不安を、一刻も早く解消して差し上げなければ!!!


 妙な使命感に駆られたわたしは、兄の手首を掴むと、そのまま彼の腕を一気に引き剥がす。

 指先は難なく唇から離れ、わたしのお口は晴れて自由の身となった。


 口もとの拘束が解かれたあと、深呼吸を三回繰り返したわたしは、兄へと向き直る。


 伊佐子のことはまだ、打ち明けることはできない──そこは申し訳ないと思いつつも、まずは「あんなこと」に対する、兄の誤解をとこう。


 そこでわたしの秘密の一端に触れ、兄の様子を確かめてみるのも、良い考えなのかもしれない。





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■『その隠された首の噛み痕は』回に新作イラストを掲載しました■


全体像は https://book1.adouzi.eu.org/n5653ft/195/ にて見られます

挿絵(By みてみん)

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