【真珠】ブラコン萌芽期?
忍の手には皺くちゃのハンカチが握られている。
どうやら、慌ててポケットから引っ張り出したようだ。
淡いオレンジ色の布を視界に入れた彼は、途端に落胆の色を見せた。
おそらく、泣いているわたしに貸すつもりだったのだろう。だが、皺だけではなく細かな汚れも発見し、とても渡せる状態ではないと判断したらしい。
盛大な溜め息を落としたのち、自分のポケットにそれをしまった忍は、物言いたげな視線を出に送った。
忍の意図を汲み取った出は、小さく頷くとポケットに手をのばす。
そこから取り出されたのは、忍と色違いのハンカチだった。
出は若草色の布地をわたしに差し出すと、背中をトントンと優しく叩いてくれた。
忍も既に気持ちを切り替えたのか、わたしの頭を撫でている。
出から手渡された爽やかな色合いのハンカチは、綺麗に折りたたまれ、使われた形跡すらない。
二人の持つ小物にも、それぞれの個性が映し出されていた。
その対照的な様子がおかしくて、「ふふっ」という声が口からこぼれる。
わたしの笑い声を耳にした双子は、揃って安堵の表情を浮かべ、目を見合わせて微笑んでいた。
ああ──いいな。
二人の少年に対して、わたしはそんな思いを抱いた。
泣いている人間を瞬時に気遣える久我山兄弟のことを、とても羨ましく思ったのだ。
それは、伊佐子抜きの『真珠』には、到底できない対応だったから。
幼い子供は、最も身近な存在である親を手本にして、他者との関わり方を学んでいく。
物心つく前の幼児に限定して言えば、不測の事態に見舞われたときの対処方法は、その親の言動が指針になることが多い。
だから、親の態度を倣ったであろう出と忍は、泣いていたわたしを咄嗟に宥めることができたのだ。
背中を優しく叩いたり、頭を撫でたり──それはきっと、彼らが涙を流したときに、両親がしてくれたことなのだろう。
二人がわたしに見せた思いやりの行動は、葵衣とその夫が子供に寄り添い、温かな愛情を注いでいる証拠のような気がした。
…
「今からボクが自己紹介するから、忍も同じように挨拶してよ。わかった?」
「わかった。まかせとけ!」
わたしはあれからすぐに泣き止んだ。
それを見計らった久我山兄弟が「自己紹介をするね」と言って、わたしの前に並び立つ。
「さっきは突然驚かせて泣かせちゃったみたいで、本当にごめんなさい。ボクは出。久我山出。で、こっちは──」
「オレは忍! お前はシンジュだよな? シンジュって、不思議な音だったから、オレ、すぐに覚えたんだ」
真珠という名前を忍がどこで知ったのか、情報の入手ルートは分からないままだ。が、彼らと同じようにわたしも自己紹介をする。
「わたしは月ヶ瀬真珠。忍くんは、真珠っていう名前の響きが、不思議な音に聞こえたの? あのね、真珠ってね、Pearlのことなんだよ」
二人と順番に握手をしようと思い、わたしは右手を差し出した。
まずは、近い位置にいる出からと思い、手を重ねようとした──のだが、その動作は遮られてしまう。
犯人は、忍だ。
彼の電光石火のごとき動きによって、仲良しになるための挨拶は遮断されてしまったのだ。
その阻止行動に、わたしは首を傾げる。
──おかしい。
忍は、先ほどからわたしに興味津々だったはず。
それなのになぜ、彼は現在、怒っているような顔をしているのだろう?
この短時間のあいだに、彼の気に障るようなことをした記憶も、悪事を働いた覚えもない。
……いや?
ひとつだけ思い当たることがあった。
悪事ではないが、忍がわたしと出の接触を嫌がる可能性に気づいてしまったのだ。
その事実は、乙女として、かなり恥ずべきことなのかもしれない。
わたし──もしかして……バイキン扱いされてる!?
自ら出した結論に軽くショックを受けながら、先刻泣いた際に、鼻水をズビズビ垂らしていたことを思い出す。
あれは確かに美しくない。いや、それどころではなく、間違いなく汚かったと断言できる。
わたしと久我山兄弟の出会いの記憶は、燦然と輝く鼻水に彩られてしまったのだろうか。
彼らに今後『洟垂れ真珠』と渾名されるやもしれん──と、軽く絶望したわたしは、既に涙目だ。
いやいや、落ち着けわたし。
仮に忍が、わたしのことを汚物のように思っていたとしたら、自分のハンカチを貸そうとはしないはず。だ……よね?
でも、それ以外で握手を阻止される理由が思いつかない。
わたしは忍の様子をうかがった。
彼は両目をカッと見開き、顔を赤らめている。
まるで、浅草寺で目にした風神雷神像の表情のようで、怒っているようにも見えた。
けれど、その直後、忍の瞳が揺れていることに気づく。
どうやら彼の持つ感情は、『怒り』ではなく『戸惑い』から生まれた『苛立ち』のようだ。
これって、どういうこと?
彼が『苛立ち』に至った心境を理解したくて想像を巡らせるも、残念ながら皆目見当がつかない。
いや、ますます分からなくなったと言う方が正しいのかもしれない。
しかも、おかしなことに忍自身も、ひどく狼狽しているのだ。
自分がとった行動の理由を、理解していないのだろうか。
そこでわたしは、十年後の『この音』の世界で目にしていた、忍の徹底したブラコンぶりを思い出す。
ゲーム攻略中、忍が出へ向けた依存のような関係性には手を焼いたし、根深い固執に辟易もした。
けれど現在の忍は、そこまでの酷い執着を、出に対して抱いているわけではない。
もしかしたら、ちょうどブラコンモードに入るあたりなのだろうか?
謂わば──『ブラコン萌芽期』?
そう考えると、今の忍が見せた態度は、単なるヤキモチということで説明がつく。
今まで当然のように隣にいた出に、自分以外の人間が接触を図ったことで、深層心理の中で眠っていた独占欲に近い『兄弟愛』に目覚めてしまったのかもしれない。
多分、そうだ!
それ以外の理由も思いつかないので、そうと仮定しよう。
忍の中に、複雑な感情を呼び覚ました原因は、このわたし──本日、彼らの世界に『真珠』という異物が混入したことで、自分がいかに出を大切に想っていたのかを、忍自身がはっきりと自覚したと。そういうことか。
ナルホド。
まさかわたしの存在が、忍のブラコン要素誕生に関係してしまったとは思いもよらなかった。が、すさまじく貴重な瞬間に立ち会ってしまったことだけは理解できた。
ん?
待て、わたし。
貴重な時間に立ち会えたとか、呑気にしている場合ではないぞ。
ここは細心の注意を払う必要があるのではないか?
わたしの登場イコール『出を奪うライバル出現』と忍が勘違いし、敵対心を持たれてしまっては元も子もない。
焦ったわたしは、それならば──と、出と忍の手を同時につかみ、彼らの掌をサンドイッチの具に見立てて重ね合わせた。
この接触方法であれば忍自身も出と触れ合っているので、わたしに目くじらを立てるような事態には陥らないと思う……が、自信はない。
もうここまできたら、あとはひたすら祈るばかりだ。
これは、歩み寄りに向けた親愛をあらわす行動なのだと言い聞かせ、わたしは二人の手を優しく包み込んだ。この手は、さながらサンドイッチの具を挟む薄切りパンだ。
ライバルになるつもりは毛頭無いのだと、人畜無害な笑顔を向ける。
忍に対しては特に念入りに、だ。
ここで彼からエネミー認定されてしまっては、この先が思いやられる。
だから今が背水の陣なのだと、自分史上最高の笑顔を炸裂させたのだ。
だがしかし、その笑顔を忍に送った甲斐はなく、彼は口を真一文字に結んだまま。しかも、ますます顔を赤らめていき、まるで怒った赤鬼のようになってしまう。
これは……忍懐柔計画が失敗に終わったことを意味するのだろうか?
不安になった瞬間、出からの視線に気づく。
そちらに目線を移すと、楽しそうに笑う出と目が合った。
出よ、笑いごとじゃないのだぞ!?
わたしにとっては死活問題だ!
そんな悪態をつきそうになったがグッと堪え、表情にはおくびにも出さない。
自らの保身のためとはいえ、渾身の笑みを振り撒くことに尽力し続けたわたしを、誰か褒めてはくれないだろうか。
…
出会ってしまったのならば、これも運命。
無駄に足掻くよりは、時には諦めることも学ばねばならぬようだ。
幸か不幸か、既に関係を築いている親族である兄や貴志。それから幼馴染み枠の晴夏やラシードと同じように、久我山兄弟とも友好な関係を結び発展させたほうが、敵前逃亡のごとく逃げ出すより建設的だ。
これから先の時間軸において、久我山兄弟と仲良しこよしができるなら、十年後もきっと、大きな問題は起きないはず。
希望的観測ではあるが、そこはわたしの腕の見せどころだ。
今日のところは失敗に終わったかもしれないが、『久我山兄弟と懇意にするぞ!(長期計画)』の骨子をまとめていく。
そこで、ふと母と葵衣の姿が浮かぶ。
子供同士が仲良くなることをきっかけとして、母親二人が徐々に歩み寄ることは可能だろうか?
母は兎も角、葵衣に至っては美沙子ママに向けた過去の言動に悔恨の念を抱き、自分と同じ轍を踏ませまいと、息子二人に厳しくも愛ある子育てをしている最中のはず。
その葵衣が、電話で母を怒らせたというのは些か疑問が残る案件ではあるのだが、その理由も追い追い判明するだろう。
なぜならば、母と葵衣の通話が繰り広げられたその場には、我らが紅子サマがいたのだから。







