【真珠】「──出た……!」
ふあ!?
いったい何が起きたのだ?
目の前には、鳩尾をおさえてうずくまる子供。
右の拳には、微かな鈍い痛み。
わたしはコテリと首を倒し、状況把握に勤しんだ。
…
遡ること、十分と少し前。
紫織からもたらされた、母と葵衣が会話をしたとの情報によって、ノックアウト寸前の渦中──ふと、貴志のスーツの内ポケットに目が引き寄せられた。
なにやら賑やかに、光が点灯していることに気づいたからだ。
「貴志、スマホかな? 胸のところ、光ってる。もしかしたら、紅子から着信でもあったんじゃない? 音を消していたから気づかなかったのかもよ? わたし、ひとりで受付まで行けるから、すぐに連絡をしてあげて」
「いや、お前をひとりで行かせるわけには……」
貴志の言葉を耳にした紫織が、即座に反応する。
「貴志くん。美沙子さんの着替えを担当した着付師さんが、受付で真珠さんのことを待っているんだ。だから、ここは私が連れて行くよ。緊急の用件なんだろう?」
紫織の申し出に、貴志の動きが一瞬だけ止まった。
わたしを他人に任せることを躊躇しているようにも見える。
ここは美容室の出入口。
受付も、目と鼻の先。
任せる相手が優吾ならいざ知らず、紫織は仲人夫妻の関係者。しかも社会的立場のある人間だ。
この短距離移動で、身の危険に晒されるような対応を、紫織から受けるとは思えない。
ちなみに「それを言うのなら、齋賀優吾だって社会的立場のある人間だろう?」と思われる方もいるかもしれない。よって、念のため申し添えておく。あいつはわたしにとっての鬼門──安心して身を預けるに値する人物には、なり得ないのだ。今のところ。
「貴志、わたしね……心身共にものすごく疲れていて……早く着替えたいの。だから紫織さんと行ってくるよ。紅子によろしく伝えておいて──紫織さん、お手数ですが付き添いをお願いします」
グッタリした心を立て直すべく、息を深く吸ったわたしは美容室へ向かって足を踏み出した。
チラリと振り返ると、貴志は早速紅子に連絡を入れているようだ。
紅子は、大丈夫だったのだろうか?
目の前にいた葵衣が、突然美沙子ママと電話で会話を始めたのだ。
通話相手が母だとわかった時点で、相当慌てたことだろう。
──でも……そうか。
母は既に、葵衣と話をしていたのだ。
その事実を加味しても、あの程度の爆発でおさめられたのは「かなりの朗報」と言ってもいいのかもしれない。
父の変化と同様に、母の中でも『何か』が変わり始めている──そう思えたのは、先ほどの彼女の様子を見ていたから。
新たな生命の宿った腹部を両手で包み、慈愛に満ちた眼差しを湛えた姿。
殻に閉じこもるのではなく、前へ向かって進もうとする気概。
その双方から、母の心の変化が伝わったのだ。
もしかしたら、バイオリンを禁じられる最悪の未来も、訪れずに済むのかもしれない?
そんな希望の光が、心の中に射し込みはじめる。
正直に言えば、僅かな不安はまだ残っている。
けれどその不安自体も、いつの間にか、濃い霧から薄い靄へ様変わりしていた。
先刻、貴志が口にした「不安に感じることはない」との後押しが、効いているようだ。
紫織に先導されながら美容室内に入ると、すぐに名前を呼ばれることとなる。
「真珠お嬢さま、こちらです」
受付で待機していた着付師のお姉さんが、わたしにいち早く気づき、声をかけてくれたのだ。
美容室側に引き渡されたわたしは、紫織にお礼を伝え、その場で彼と別れた。
着替え中、期待と不安が混じった複雑な心境が、顔に表れていたのかもしれない。
着付師さんも、わたしが考え事をしているのを察してくれたようで、余計な口を挟むことなく作業に専念してくれた。
幼い子供にも気遣いを見せる姿勢は、流石『星川リゾート』系列のスタッフ。大変有り難く、その社員教育の細やかさにも、唸らずにはいられなかった。
ワンピースに着替えると、途端に肩の力が抜けた。
緊張が和らいだことにより、人心地もつく。
和装中は結い上げられていた髪も、現在は櫛で梳かれ、肩に沿うように下ろされている。それもホッとできた要因のひとつなのかもしれない。
「慣れない着物でお疲れになりましたね。お召し替えを終えられてから、表情が柔らかくなったので安心しました。それでは、お嬢さま──お迎えがいらっしゃるまで、キッズルームにご案内いたしますね」
インペリアル・スター・ホテルの美容室には、大人が着付けや髪結いの準備をする間、同行した子供が退屈しないように、遊ぶ部屋が完備されている。
そのプレイルームに案内されたわたしは、入室前にバーコード付きのバンドをはめられることになった。
親への引き渡しに間違いが起きないよう、ホテル側で管理しているのだろう。
扉から部屋の中を覗いてみたけれど、現在この室内を利用している子供はいない。
どうやら、しばらくわたしだけがこの一室をまるまる使用できるようだ。
中央に設置されたパステルカラーの滑り台で遊びたい気持ちも湧いてしまったけれど、それを抑えると、入り口近くのソファに目を留める。
ひとりでじっくり考えごとをするには好都合とばかりに、子供用の小さな座面に腰掛けたのだ。
キッズルームに案内されたということは、迎えがまだ来ていないことを意味している。
着物を着るには時間を要するが、脱ぐのは一瞬だ。
思いのほか時間が掛からなかったので、両親は克己氏とまだ話し中なのかもしれない。
貴志もおそらく、紅子と連絡を取り合っている最中だと予想される。
あれ?
そういえば……。
母が葵衣と会話するきっかけを作った張本人──紫織は、どうして美容室にいたのだろう?
今朝方、彼とすれ違ったとき、紫織はこの美容室に荷物を運び入れていたことも思い出す。
ああ、そうか。
もしかしたら、藤ノ宮夫妻が結納後に着替えるための服装品を、複数回に分けて運び入れている途中だったのかもしれない。
どこかしっくりしないながらも、明確な回答はわからなかった。
そのため、紫織が美容室にいた件については、ひとまず頭の隅に追いやることに決める。
いまは、気持ちを切り替えよう。
わたしにできるのは、わかった内容を整理してまとめ、今後の対策を練ることだ。
心の中に漂う『靄』を完全に振り払うべく、頬をパンッと叩き、思考を集中させる。
ひとつ──残念ながら、母と葵衣の接触は避けられなかった。
けれど、希望はある。
母の様子を見るに、バイオリンはおそらく続けられるような気もする。
いや、「気がする」なんて弱気でいては駄目だ。
なんとしても続けたいと、両親に訴えるのだ。
貴志と父、それに紅子も味方になって援護してくれるはずだ。
それから、もうひとつ──これは、懸念事項。
『TSUKASA』のアーカイブに保存されている映像の件も、未だにこの心に巣食う『靄』の大半を占めている。
けれど今は、貴志の言葉を信じて、悪い考えを追い払おう。
──よし!
頬を両手でピシャリと打ち、気合いを入れる。
悶々とする気持ちを粉砕するべく、わたしは目を閉じて深呼吸を繰り返した。
そして、最後の仕上げとばかりに、不安を完全に吹き飛ばす儀式に取り掛かる。
目を瞑ったままの状態で右手をぎゅっと握りしめ、不安という名の靄を霧散させるイメージを描き、拳を勢いよく前に突き出したのだ。
その時のことだった。
「シンジュ? お前、シンジュだろう!?」
「いきなり声をかけたらダメだ……──あっ!?」
──へ!?
腕をシュッと繰り出した次の瞬間、唐突に人影が飛び出してきたのだ──わたしの目の前に、絶妙なタイミングで。
「うおっ」という声がキッズルーム内に響き、同時に、右手にはなぜか──クリティカルヒットの感触。
そして……目の前には、お腹をおさえて蹲る子供……?
わたしはこの事態に理解が追いつかず、コテリと首を倒した。
──な……何が起きたのだ!?
動揺のなかにあっても、自分の腕に伝わった奇妙な感覚だけは残っている。
地味な痛みを訴える右手首を見つめ、まずは自分の身体確認を優先させる。
──うん、大丈夫。
怪我はしていない。
腱鞘炎への影響も問題なさそうだ。
そのことからも、それほど激しい接触でなかったことは予測できた。
状況把握に意識を傾けていたところ、わたしの手を心配する声が頭上から降ってくる。
「キミ! 手は、大丈夫!?」
どうやら、蹲る子供とは別の、新たな子供が出現したようだ。
その子供が、わたしの右手を恐る恐る包み込み、怪我の有無を確かめている。
「心配してくれて、ありがとう。あの……わたしは大丈夫だよ? それよりも──あの子。倒れたままだけど……大丈夫……なのかな?」
激しいパンチではなかったはず。だが、起き上がる素振りすら見せない子供の様子に、焦る気持ちが産声をあげる。
程度の強弱はあれど、人様を殴ってしまったという衝撃の事実が、わたしの心に追い討ちをかけ、時間の経過につれて動悸が増していく。
ど……どうしよう。
わたし……もしかして、齢五つにして傷害事件を起こしてしまったのか!?
しかも結納という、人生の晴れの舞台当日に!
不可抗力とは言え、この状況は言い逃れできない。
心を覆っていた不安の『靄』を蹴散らすため、繰り出したはずのわたしの黄金の右腕──それが、今度は大変な事態を招き寄せてしまったようだ。
慌てふためきながらも、二人の子供に対して誠心誠意の謝罪をするべく、座っていたソファから立ち上がる。
「ごめんなさい! どうしよう──そうだ! 病院! 病院でお医者さまに診てもらわないと!」
保身とかしている場合ではない。
相手に怪我がないことを確かめ、もしあったのならば治療を受けてもらう必要だってある。
顔面蒼白になりながら、そこで初めてわたしは二人の子供の顔をしっかりとこの目で捉えた。
刹那──あまりの驚きに、両目がカッと開かれる。
「──出た……!」
そんな呟きが口から洩れた直後、わたしは呼吸を忘れ、その二人の顔を、ただただ茫然と見つめることしかできなかった。
──なんたることだ!?
こんなところで、出会う予定はなかったのに!
己の運の悪さを、心底呪いたくなった。
彼らの正体。
それは、まさかまさかの──
久我山双子兄弟!!!???
紫織が美容室にいた理由も、ここにきて判明だ!
彼は、甥っ子にあたる双子の世話を焼いていたのだ。きっと。
わたしの右頬が痙攣し、ヒクッと震えた。
心配そうな表情で、わたしの右手に触れているのは、おそらく兄の──久我山出。
目の前でお腹をおさえて転がっている方は、その行動の突飛さから言って──久我山忍と見て、間違いないだろう。
こんなところで、幼馴染みフラグが立ってしまうのだろうか!?
しかも──よりにもよって、被害者と加害者という関係で。
わたしの記憶が確かならば──
本日、本気で泣きたいと思ったのは、早朝から数えてこれで二度目、だ。







