【真珠】結納前夜のコンタクト 前編
「アオが来る──明日、このホテルに。家族で」
紅子からの着信を保留にした貴志が、わたしに向かって伝えた。
「へ? アオって……久我山葵衣のことだよね? このホテルに来るの? どうして?」
疑問が後から後から湧いては、ポロポロと口からこぼれていく。
「紅が、アオから呼び出されたらしい」
紅子が葵衣に?
二人は今でも付き合いがあるようだから不思議ではないが、明日このホテルで旧交を温めるとは、なんという偶然だろう。
「それって、家族ぐるみで会うってこと? ハルやスズちゃんも含めて……」
貴志は「家族で来る」と口にしていた。
それは久我山一家総出でやってくると言う意味ではないだろうか?
「いや、そうじゃない。会うのは紅だけだ。俺が「家族」と呼んだのは、アオ夫妻と子供、それから夫妻の両親だ。どうやら両家の会食が明日の晩、『インペリアル・スター』で予定されているらしい。紅が言うには、明日が夏の一時帰国最終日で、渡航前の食事会が開かれるようだ」
紅子が呼び出された理由と、久我山一家プラス両家両親の晩餐がつながらず、わたしは首を傾げた。
貴志がかいつまんで、紅子が葵衣に呼び出されたあらましを説明する。
それによると、葵衣が久我山家──夫側の両親に対して、気を利かせたことから始まった出来事のようだ。
葵衣が子供達と日本に滞在した期間は、約二ヶ月。その間、彼らは大半を藤ノ宮家に滞在していたとのこと。
その為、嫁である自分を抜きにして、義両親には気兼ねなく葵衣の夫──つまり息子と、それから孫と共に過ごして欲しいと、その時間を作っていたのだ。
義両親に気を遣わせないよう、葵衣本人はその間、自分の母親と共にホテルのアフターヌーンティーで、のんびりする心算だった。が、その母親の予定が急遽変更になってしまったと言う。
紅子が呼び出された理由は、葵衣の空いた時間に付き合ってもらうため、のようだ。
貴志が電話を保留にしたまま、フロントへ内線連絡を入れる。
レストランの予約確認をしたところ、『久我山家・藤ノ宮家、ご一同様お食事会』が入っているのは確かだった。それに加えて、宿泊者リストにも久我山一家の名が記されていることも分かった。
高級スイート宿泊客限定ではあるが、リムジンでの送迎サービスが特典としてついていたことを思い出し、久我山一家は空港までの移動手段も考慮した上で、『インペリアル・スター』を最後の晩餐場所として選択したことも推測できた。
葵衣の両親──その父親と言えば、木嶋さんが「藤ノ宮先生」と昼間口にしていた藤ノ宮喜助内閣官房長官だったはず。
なるほど、王族や各国首脳もお忍びで利用するのが、このホテルのもうひとつの顔だ。
要人だからこそ、厳重な警備の行き届いた『インペリアル・スター』を好んで使用する。その場所選択は納得だ。
貴志は内線電話を切ると、紅子との通話を再開する。
その際、耳をそばだてているわたしに気づいた貴志が、紅子に通話をオープンにする旨の許可を取ってくれた。
紅子は、自分が葵衣と約束をしたホテルが『インペリアル・スター』だと知り、貴志に慌てて連絡を入れたとのこと。
母から、わたしと貴志の結納場所もこのホテルだと聞いていた彼女は、美沙子ママと葵衣の偶発的な再会を危険視したようだ。
『──そんなわけで、葵衣からわたしに直接連絡が入るようになったのも最近のことで、この数年間はホリデイカードを送り合うくらいのものだったんだ。だがここにきて、葵衣と美沙子が同時期に変化したとなると──何かが動き出している状況が、どうも気になってな。取り越し苦労かもしれないが、一応、心に留めておいてくれ』
紅子の言葉に、貴志が相槌を打つ。
「──確かに、何かが動き出す時は、突然雪崩のような勢いで押し寄せたかと思うと、すべてが連鎖していくものだからな……良くも悪くも」
そう言った貴志が、わたしの顔をチラリと視界に入れた。
貴志の返答を耳にした紅子の、楽しそうな声がスピーカーから聞こえる。
『一端のことを理解しているようで、なかなか結構』
それだけ口にすると、紅子は話題を戻す。
『わたしの方でもできるだけ鉢合わせしないように努めるが、何がどう転ぶのか正直分からない。それに、今は特に時期が悪い──真珠が功雄のスタジオに完全に属したあとだったら、まだ対処のしようもあったんだがなぁ……』
確かにそうだ。
早乙女教授からの指導を一度でも受け、完全なる師弟関係になっていれば、スタジオを辞めることは難しい。
けれど、わたしはまだ教授からの指導を受けたことはなく、謂わば──宙ぶらりん状態の生徒なのだ。
万が一、美沙子ママと葵衣が接触した場合、母のバイオリンに対するトラウマが呼び覚まされ、わたしのスタジオ通いを白紙撤回される可能性も無きにしもあらず。
紅子が黙り込むと、貴志が言葉を継いで、最近の母の様子を語る。
「美沙と話をした様子だと、今では義兄さんとの関係は良好だし、子供に関わることを彼に相談もせず、極端な判断を下すとは思えない。だが、万が一ということもあるしな」
『そうだな。間違いなく美沙子は変わったよ。それも、良い方向に。昔と違って子供の話題も出るようになった──とは言え、気をつけるに越したことはない』
紅子の言葉に貴志が溜め息をつく。
「紅の心配もわかるが、美沙だってもういい大人だろう。俺が言っていい科白ではないが……過去に二人の間で何か問題があったにせよ、いつまでも引きずっているわけにもいかない。ましてや、来年には三人の子供の親になる訳だし──逃げてばかりいては、いいことはひとつもない」
貴志の言葉に、紅子がハハッと笑う。
『それは、お前の経験談か! 美沙子も、お前が親御さんと和解した件で、何か感じるところもあったかもしれないしな。だが、葵衣と派手に喧嘩をするなり、手を取り合って和解するなり、二人の関係を変えていくのは、まだ──今じゃない。まあ、取り敢えず、明日はお互いホテル内で出くわさないよう気をつけよう』
その後は、貴志が明日のタイムスケジュールと滞在するフロア情報を紅子に語り、紅子も葵衣と約束した詳細を貴志に伝え、その通話は終了となった。
貴志はスマートフォンを手にしたまま、今度はメッセージを打ち始める。
宛先には『月ヶ瀬 誠一』の名前が選択され、貴志がコンタクトを取ろうとしている相手が我が父であることがわかった。
手が空いた時に連絡して欲しい旨を入力し、送信する。
紅子からの件を父に伝えるつもりなのだろう。
理由はわからないけれど、貴志なりの考えがあって父とのコンタクトを試みているのは理解できた。
美沙子ママと葵衣の確執に関して、ゲーム『この音』での知識はあるものの、わたしは門外漢だ。
自分のバイオリンの今後に関わることとはいえ、子供である自分が今対処できることは殆どない。
夕方、月ヶ瀬家の居間で葵衣の名前を出したときに耳にした、紅子の真剣な声音がよみがえる。
『美沙子の前で、絶対にその名を出すな』
『──真珠のためだ』
もし母から、バイオリンを弾くことを禁止されたら?
不安な思いが、心の中に生まれる。
何もできない自分自身が歯痒く、もどかしかった。







