【真珠】相克の『無伴奏組曲』
参考演奏動画は、後書きに掲載
貴志が爪弾く旋律には、聴き覚えがあった。
「Cassadó……」
わたしの呟きを拾ったエルが、言葉を繋ぐ。
「『無伴奏チェロ組曲』──か」
エルはそう呟くと、静かに瞼を閉じた。
…
ガスパール=カサドー。
スペイン出身の名チェリストであり作曲家。
『チェロのための無伴奏組曲』は、カサドーを見出した恩師パブロ=カザルスに献呈された曲だ。
スペイン調の旋律が印象的なこの組曲は、三楽章に渡って情熱の音色で奏でられる。
その曲調は、時に激しく、時に軽やかに──哀愁と歓喜とが相克しあい、聴く者の心を虜にする。
無伴奏チェロ組曲というと、まず最初にバッハを思い浮かべる人も多いと思われる。が、そのバッハの組曲の価値を見出し、世に広めたのがカサドーの恩師──二十世紀を代表するチェリストのカザルスである。
…
貴志が弾いているのは、第一楽章『Preludio—Fantasia』
フォルテから始まる深みのある初音。
その余韻に浸る間もなく、緊張感を保った音色が高音域へと登りつめる。
貴志の織りなす世界の幕開けは、この場の空気を震わせた。
立ち去る素振りを見せていたエルも、今はその圧巻の音色に耳を傾けている。
愁いを帯びた旋律。
気怠げな音の連なり。
妖しくも美しい調べが生み出される。
一瞬にして、その組曲の世界に誘われ、心ごと飲み込まれる感覚に襲われた。
貴志は──どんな想いを込め、弓を引くのだろう。
双眸を閉じたエルは──何を思い、その調べを聴いているのだろう。
時折見え隠れする感情は、行き場を失った──燻る想い?
悲哀に彩られた調べが流れ出し
音の糸がまとわりついては、心を締めつける。
身動きのとれない苦しさは、少しずつ趣を変え、不穏な気配を漂わせる。
変化した音色が表すそれは──行き場のない苛立ちか。
演奏から伝わる心模様は、先ほどエルから感じた様子と、何処か似通っていた。
エルから伝わった焦燥に似た想いは、彼の中にある何某かの感情の成れの果てだったのかもしれない。
「エルに対して、安心感を覚える」──その気持ちが伝わった際、彼が苦笑した理由は?
貴志を想うことで、服を纏った意味を問うべからず──そう、エルが口にしたのは何故?
未だもって──エルがわたしに伝えようとしたものの真意が見えない。
エルがその胸に抱く、想いとは?
彼の姿を見れば、何か真相がつかめるかもしれない。
そう思ったわたしは、隣に座るエルの表情を確かめるべく、顔を動かした。
けれど──
その行動は、エルの手によって阻止される。
彼の右腕がわたしの背後をまわり、突然引き寄せられたからだ。
体勢を崩し、倒れ込んだ先はエルの胸。
そこに顔を埋めたわたしは、慌ててソファに手をつき、起き上がろうとする──
「今は──そのままで」
掠れた声が頭上から届いた。
エルが望んだのは、男女の抱擁ではない。
彼がわたしを抱き寄せた理由は明白だった。
大きな手はわたしの両目を覆い、視界を奪ったまま──こちらを見るなと、態度で示しているのだろう。
物言わぬ彼の行動と、その意図を理解したわたしは、しばしの間その望みを受け入れることにした。
エルに身を預けたわたしは、その肩口で静かに目を閉じる。
チェロの音色が響く。
束の間の喜びの音色が流れるが、隠された悲哀も滲みだす。
加速した嘆きの音色はおさまらず、心の堰を切る。
溢れ出した感情の奔流が、表現しようとしているものは何?
悲嘆に暮れ、気鬱にとらわれたチェロの音が紡がれる。
貴志は──今日のわたしの態度に、寂しさを覚えたと──そう思いながら、曲を奏でているのかもしれない。
彼の想いを信じ切れず、逃げ出してしまったのはわたし自身。
──彼が望むのは、目を逸らさず、対話することだったのに。
貴志の姿を心に宿すと同時に、エルの囁きが耳をくすぐった。
「──貴志よりも先に出会っていたら……お前は私の『祝福』を受け入れたのだろうか?」
それは、唐突な質問だった。
──わたしにも、その答えは分からない。
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
この世界で、初めてわたし自身を理解してくれたのが貴志だった。
彼がいなければ、今のわたしはいない。
暗闇から救い出してくれた感謝の念が、貴志に対する想いに影響しているのは違えようのない事実。
でも、分かるのはそれだけ。
もしもの可能性で答えるのだとしたら、貴志の位置にエルがいることも否定できない。確率論にゼロはないのだ。
「そうか──お前の答えは……有り難く受けとめよう。だが──」
一旦言葉を切ったエルは、わたしを抱き寄せる腕に力を込める。
逡巡する空気を僅かに漂わせたのち、彼は粛々と言葉を継ぎ、わたしが求めた答えを口にした。
「お前がわたしへ向ける想いは、まるで親を慕う子のような感情だ。この場に現れるたび、お前が無防備な姿を晒していたのは、その心の顕れ──」
エルは小さな溜め息を落とした。
「私への信頼の証だと喜ばしく思う反面、お前の心が無意識のうちに伝えていたのだ──私達の間にその先はない──と。私の前では変わらなかった姿が、貴志を思い描いた時点で変化をみせた。それが全ての答え──ここまで言えば、お前も理解できるだろう」
わたしの目を隠していた手を離し、徐に立ち上がったエルは、こちらに背を向ける。
「星の輝きを手に入れたいと望むのは、人の性だ」
天空に輝く星──それは届かない場所にあるからこそ、人の目には眩くも尊い光と映るのだろう。
エルは、わたし自身を星に例えたのだろうか?
──その心の呟きに、彼が答えることはなかった。
「今宵、お前が訪ねてくると、貴志からは聞いている。私が此処で口にしたことは忘れ──笑顔で部屋を訪ねてほしい。お前は、私のこの願いを……叶えてくれるだろうか」
エルがどんな表情をしているのか、ここからは知ることができない。
わたしは静かに頷いた。
声には出さず、心の中で承諾の意を伝えたのだ。
「──感謝する。……もう間も無く、目覚めの時が訪れるだろう」
…
遠くで聴こえたチェロの音が、急に間近で聴こえるようになる。
朦朧とする意識の中、わたしはゆっくりと瞼を開けた。
横たわった姿勢のまま周囲を確認すると、そこはベッドの上。
眠っている間にホテルへ到着し、貴志の手によって寝室に運ばれたのだろう。
無伴奏組曲の音色は、居間から届いているようだ。
開け放たれた寝室の扉から顔を出し、貴志の姿を探す。
ダイニングテーブル近くに、チェロを奏でる彼を見つけた。
気づけば軽妙な第二楽章が終わり、三楽章目に突入するところだった。







