【真珠】兆し
思い出の回想に没頭するあまり、エルがソファから離れ、いつの間にやらわたしの目の前に立っていたことにさえ気づかなかった。
──ああ、そうだ。
二人の関係について想像するのはご法度だと、先ほど彼から指摘を受けたばかり。
注意を受けてモノの数秒で、思い出の世界に意識を飛ばしていたことを申し訳なく思い、わたしは首を竦めた。
気まずい思いでエルを見上げると、彼は何故か頭を抱えている。
──頭痛か?
わたしの記憶映像が流れ込み、エルの身体に負荷を強いてしまったのだろうか。
ほんのひと月ほど前、真珠と伊佐子の記憶が溢れ返り、演奏中に倒れてしまったあの舞台を思い出し、その時と似たような現象がエルの身にも生じてしまったのではないだろうかと心配する。
だが、どうやらそういった理由で頭を押さえている訳でもなさそうだ。
ああ、そうか──と合点がいき、わたしは右手の拳で左の掌を鼓のようのポンッと叩いた。
ナルホド。未知なる世界を垣間見てしまった衝撃による混乱か。
本物の王子さまであるエルにとって、おそらく無縁の世界なのだろう──男色は。
ノーマルのエルには、理解しがたい好意を向ける対象だったと。そういうことだ。多分。
でも、人間の好みなど千差万別。人それぞれだ。
同性を好むルーカスの嗜好も、わたしには理解できていないが、わからないからと言って否定するようなものでもない。
自分が良いと感じるものを全ての人間が好きだとは限らないし、自分が苦手とするものを万人が嫌っているわけでもない。
「真珠、それは立派な考えだ。更には私の身を案じてくれたことにも感謝しよう。だが──まるで見当外れだ。私は、その恩師と弟に同情していただけ」
同情──それは、彼等の想いが重ならなかったから?
エルも意外と優しいところがあるのだな、と感想が降りてきた瞬間、わたしを見下ろしていた彼が溜め息をつく。
「それも違う。お前には色々と物申したいが、既に手遅れ。故に、多くは語らずにおこう。だが、一言だけ言わせてくれ──」
なんだろうと、わたしはエルの黒い瞳を真っ直ぐ見上げた。
アルサラーム神教の教皇聖下から、何か大切なことを伝えられる予感に自ずと背筋がピンッと伸びる。
けれど、再度大きな溜め息をこぼした黒衣の王子は、有り難い言葉の代わりに呆れ顔でこう言ったのだ。
「この──馬鹿め」
──と。
エルのその口調は、かつて弟が……いや、尊だけはなくルーカスも口にした発音に酷似していた。
事あるごとに尊が吐いていたわたしへの暴言を、いつの間にやらルーカスも覚え、意味まで理解していた時の驚きと言ったらない。
しかも、あの恩師。覚えただけでは飽き足らず、正しい用法でもって活用しはじめたのだ。
専らわたしを弄る時だけ操られるその日本語は、仲間内にも徐々に浸透していった。
気づいた時には「Baka−me」という微妙なイントネーションで皆から貶められる事態が、この身に降りかかっていたのだ。
そんな事になろうとは、誰が予想できただろう。
愛ある弄りだと思いたいが、仲間内でも割と本気で言っていた人間もいたのではないかと、実はひそかに疑っている。
現世で罵りを受ける相手など、「このド阿呆」発言の貴志だけで充分だと思っていたが、エルもそれに続いてしまうのか──と、乾いた笑いが口から洩れる。
これから先、誰に何と貶められる未来が待っているのかと、激しく嘆息だ。
「そう落ち込むな」
こちらの様子及びに心境を理解したエルは苦笑し、わたしの頭頂に手を置いた。
おそらく彼は、慰めているつもりなのだろう。
「記憶の中の二人は、お前にとって大切な存在だったと……それは理解できた。その者たちに、会いたいか?──いや……愚問だな」
わたしが小さく頷くと、エルの手が頭の上から離れていく。
尊とルーカス。
それだけではなく、伊佐子の両親に仲間に親類。
会えるものなら、皆に──
「会いたいよ……でも、今はもう分かっているから。ただ、思い出すと懐かしくて──」
普段できるだけ考えないよう、意図的に封じ込めていた郷愁の念が湧き起こる。
この『太陽と月の間』には、隠したい心を剥き出しにするような作用でもあるのだろうか。
『伊佐子』としての人生は、簡単に忘れられるようなものではない。
自分の生きた軌跡を、すぐさま『過去』と割り切れるような、中途半端な生き方をしてきたつもりもない。
それに加え、転生に気づき始めた頃のわたしは、心新たに人生を謳歌しようとする強さも持ち合わせていなかった。
真摯に生きた二十二年という歳月。
花開いたばかりの未来が突然消失した絶望を、どう表現してよいのか分からず、ひとり暗闇の中に佇んでいた。
泣いて悲しみを紛らわす方法さえ思いつかないほど、この心は疲弊していたのだ。
あの夜──偶然、貴志と出会うまでは。
この世界で生きていく覚悟ができたのは、兄の優しさと、貴志の慈愛を受け入れた時だった。
泣き疲れて眠った早乙女教授宅での時間は、昨日のことにように覚えている。
あの日、わたしは初めて、この世界に根をおろし、人に頼ることを自分に許したのだ。
今の自分が『在る』のは、彼等のお陰だと言っても過言ではない。
過去を想えば、息を潜めていた嵐が蠢く様を、未だに感じる夜もある。
心の嵐が荒れ狂うことは無くなりはしたが、奥底に沈んだ未練という名の残骸は、悲しみを連れて幾度となく押し寄せた。
思い出すたび苦しくなるのは、『伊佐子』が精一杯生きた証。
けれど、過去に執着するあまり、これから先の自らの歩みを止めてしまうような人生も送りたくはない。
『伊佐子』だった自分自身を懐かしむには、まだ日が浅い。
けれど、いつかは、思い出に変えられる時も訪れるのだろう。
今はただ、心穏やかに懐古する──そんな季節が巡り来ると信じ、進むしかない。
そう思えるようになったのは、わたしが既に『椎葉伊佐子』ではなく『月ヶ瀬真珠』としての人生を受け入れ、前を向いて歩み始めた兆しなのかもしれない。
ふと、愛花の横顔が脳裏を過ぎる。
フタバスズキキュウを見上げる彼女の可憐な様子は、どこか大人びているように映った。
わたしと同じ転生者だという愛花に、前世の記憶があるのだとしたら、彼女は真っ直ぐ前を向いて生きていけるのだろうか?
今はまだ、過去世を思い出していないだけなのかもしれない。
忘れたまま一生を終える可能性だって、勿論ある。
知らずに過ごせるならばその方が幸せだと思うのは、孤独に苛まれた時間を過ごしたわたしだから言えること。
この心が孤独の闇に呑まれそうになった時、偶然にもわたしの目の前に貴志という理解者が現れたのは、幸運だったとしか言いようがない。
もしもこの先、愛花が『別の人間』だった過去を思い出し、悲しみに囚われたとしても、懐かしい人達に会う術はない。
どんなに足掻いても叶わない願いは心をすり減らし、すべてを蝕んでいく。
彼女の過去がよみがえる時──愛花の隣には、誰がいるのだろう。
わたしにとっての貴志や兄のような、頼れる存在が彼女の近くにいるのだろうか?
科博で彼女と共にいた清可とゆずちゃんの顔を思い出すが、身内と言えどおいそれと打ち明けられるような内容でないことも理解している。
チェロを愛する愛花。
彼女に出会った時に感じたあの懐かしさと、二人で歌ったあの調べが頭の中に木霊する。
…
愛花に思いを馳せ、思考の海を漂っていたさなか、突如として急激な浮遊感がわたしを襲った。
驚いたわたしは反射的に瞼を閉じ、その場にあった何かにしがみつく。
転倒するような感覚に緊張が走った。けれど、衝撃はいつまでたっても訪れることはなかった。
何が起きたのか理解できぬまま、恐る恐る目を開ける。
ゆっくり顔を上げた先には、輝くふた粒の黒曜石──エルの視線がわたしに注がれていた。
至近距離に彼がいる現状を確認したわたしは、息を呑み、固まった。
転倒防止にと咄嗟に抱きついたそれは、エルの身体だったようだ。
この身は、彼の腕の中。
横抱きにされているのは、何故だ?
動揺したわたしは目を見開き、言葉すら出せずにいる。
そんなわたしに反し、エルは困惑に彩られた眼差しでこちらを凝視していた。
大慌ての内心はエルにも筒抜けであろうが、それを隠すよう努めて平静を装い、わたしは彼の黒い瞳を黙って見つめ返した。







