【真珠】『悪い子』の涙
来客は通常使用しない、家族だけが通るプライベートな廊下を、紅子と共に移動する。
キッチンを通り抜けるコースなのだが、そこに木嶋さんの姿はなかった。
もしかしたら、貴志と込み入った話をするために、祖母が席を外すようお願いしたのかもしれない。
キッチンから居間に続く壁を、紅子が軽くノックする。
居間の中心に設置されたソファを確認すると、そこには貴志と祖母、それから母の三人が座っていた。
貴志は、祖母と向かい合って、お説教を受けている真っ最中。
彼は反論もせず、黙って話を聞いているようだ。
ひとまずは、祖母の言い分をすべて聞き終えてから、自らの意見を伝えようという雰囲気が伝わってくる。
祖母の怒りを不服ながらも受け入れることで、まずは彼女の憤りを昇華してもらう選択をしたようだ。
頭に血がのぼっている状態で話をしても、良い結果は得られないと踏んだのだろう。
貴志のその落ち着いた様子に、わたしが抱いてしまった彼への不信感が、少しだけ和らいだような気がした。
それにしても、いつも冷静な祖母が、ここまで怒りを顕にしている姿は珍しかった。
人間誰しも、すべての対人関係に於いて、同一の反応はできない。孫であるわたしと、子である貴志への対応は、まったく別物なのだろう。
祖母にとっては実子も同然の貴志。だから祖母は、貴志に厳しく接しているのかもしれない。
おそらくそれは、真っ当な人間に育ってほしいという親としての願いも、多分に含まれているのだと思う。
祖母の想いは、その言葉の端々からも伝わった。
貴志は、祖母に愛されているのだな──わたしがそう感じた瞬間、羨ましさを覚えた幼い『真珠』の心がザワリと騒ぎはじめた。
…
紅子とわたしに気づいた母がこちらにやって来た。母は少しだけ困った表情を見せながら、わたしの顔を見つめている。
幼い子供であるわたしに、理解のできない内容だとしても、耳には入れたくはない──そんな様子がうかがえた。
以前であれば、母がそんな気遣いをわたしに対して見せることはなかった。それだけではなく、触れ合うことさえ許してくれなかったのだから。
忘れてしまいそうになるが、つい最近までの母と『真珠』の関係は、本当に希薄なものだった。
わたしの中の『真珠』が、母のその様子に首を傾げる。
それと同時に、母から気にかけてもらえた喜びが、この胸の中に急速に広がっていくのがわかった。
幼い子供は、母親の態度ひとつで、こんなにも心の状態が変わるものなのか──『真珠』としての自分が抱いた感情は、驚くほどの──歓喜。
子供にとって母親は、その『小さな世界のすべて』だという事実を、『真珠』の心の動きから思い知らされる。
世界のすべてである母親から、拒絶され続けた『真珠』は、自分のどこがいけないのだろう、と幼い心を痛めていた。
そして──愛されない自分自身を、少しずつ、少しずつ──嫌いになっていった。
これは『真珠』としての、わたしの心の記憶だ。
──どうして、愛してもらえないの?
答えが分からない状態は、つらかった。
──それは、わたしが『悪い子』だから。
その結論を出せた時、心のどこかでホッとした。
でも、それと同時に、とても深い悲しみを覚え、癇癪が止まらず苦しんだことを思い出す。
小さな子供は、母親の態度が常に、自分のとるべき行動の指針となる。だから、母が下す判断や選択のすべてを正しいと信じ、疑うことさえしない。
幼い頃から耳にする母の言動が、子供にとっての正義となり、その後の善悪の判断をする基礎となっていくのかもしれない。
そのことに改めて気づき、『真珠』が悪役令嬢として育っていった過程を、垣間見れたような気がした。
目の前の母は、困った様子ではあるけれど、わたしに向ける眼差しは穏やかで、口元には優しげな微笑みを浮かべている。
母の笑顔を見たかった『真珠』が、母のこの表情を目にしたら、間違いなくとても喜ぶだろう。
級友親子が抱擁を交わす姿を目にするたびに、羨ましくてたまらなかった。
クラスメートの母親が、その子どもに向ける笑顔を見た『真珠』は、いつか自分も母から笑いかけてもらえたらいいな──と、強い憧れを抱いたのだ。
悪いところを直せば、母は笑ってくれるかもしれない。でも、何が駄目なのか、どこを直したらいいのか、まったく分からない。
自分は『悪い子』だから、『良い子』なら分かることに気づけないのかもしれない。そう気づいた時、そんな出来損ないの自分が、大好きな母の子供であることがとても悲しくて──申し訳なかった。
ごめんなさい。
悪い子で──ごめんなさい。
何度も何度も、心の中で、母に対して謝った。
それは、とても昏く、悲しい記憶。
わたしは、悪い子だ──その思いは、常に真珠の中に存在し続けていた。
幼い頃からの思い込みは、心に刷り込まれ、結果としてゲーム中の『月ヶ瀬真珠』を悪役令嬢に育ててしまったのではないかと思っている。
つい最近までの『真珠』は、母親からの愛情を感じたことがなかった。
父からは溺愛されていた。けれどそれは──母の身代わりとして。
父から与えられる愛情を知れば知るほど、母から愛されない事実が如実伝わり、虚しさを覚えた。
両親からの、本物の愛情は、望んでも手に入らない。そう気づいた『月ヶ瀬真珠』は、家の外に自分を愛してくれる存在を求めた──けれど、それも結局は叶わなかった。
『真珠』は、知らなかったのだ──無条件に愛される世界が、この世にあることを。
それは、本来であれば、母親から与えられるべき『無償の愛』を、受け取ることができなかった弊害なのだと思う。
『真珠』は、母親から愛されない自分に価値を見出すことができず、価値がなければ誰にも振り向いて貰えないと、無意識に感じていた。
だから、成長した高校生の『真珠』は──月ヶ瀬の家名のみが自分の持てる全てだと思い込み、それを振りかざした。
その矛先は、自分から愛情の欠片を奪っていく『主人公』に向けられ、愛花を執拗なまでに貶め、その結果すべてを失うに至ったのだ。
望む相手から愛されることのない無価値な自分と、たくさんの人間から愛を寄せられる──価値のある、愛花。
『主人公』を目にするだけで、自分との差を思い知らされ、苦しんだのだろう。
悪役令嬢になった『月ヶ瀬真珠』が、その心に抱いていた苦悩は、表面的なものではなく、昏く根深いものだったのだと思う。その辛苦の程は、『真珠』の心を知る、今のわたしならば容易に想像がついた。
けれど、今は『この音』の状況とは──違う。
…
わたしは、目の前の母を見上げた。
彼女は困った表情を見せているが、その瞳の奥にはハッキリとした愛情がみえる。
母・美沙子は、たった今、わたしに気遣いという名の愛情を──『真珠』が欲しくてたまらなかった優しさを、見せているのだ。
そう思った瞬間──『真珠』の心に、不可思議な感情が芽生えた。
それは、とても小さな煌めきにも似た、心の動き。
けれど、今まで感じたことのないこの気持ちは、大きな期待と不安に満ちた──驚き。
わたし──もう、悪い子じゃない?
──ちゃんと……直せたのかな?
『良い子』に──なれるかな?
その感情を受けたわたしは、『真珠』が純粋に母を慕う気持ちを知り、胸が苦しくなった。
駄目なところなんて、もとから無かった。
だから安心して。
──『悪い子』なんて、最初からいなかったんだよ。
この気持ちは、『真珠』に伝わるのだろうか。
自分の中に在る『真珠』の記憶を慰めるよう、わたしは語りかける。
どうしてそう感じたのかは、わからない──けれど、『真珠』の心が突然、鮮やかに色づいたような気がした。
嬉しさに震える心から、温かな何かが零れ落ちる。
それは──安堵と喜びに染められた、心が流した涙。
突然生まれた感情の色づきよって、自分では意図しなかった情動が生まれる。
気づいた時には、母に向かって、懸命に両手を伸ばしていた。
抱きしめてほしい──心からそう思った。
母が恋しい。
甘えたい。
この苦しさから──助けてほしい。
…
母から愛されていると実感した心に、安らぎが訪れ、それが呼び水となって、心の奥底に隠れていた感情が露出する。
伊佐子と『真珠』が同居する心の不安定な状態を、必死になって耐えていたのは、幼い『真珠』の心。
『真珠』に感化されたわたしは、祈るような気持ちで、母に救いを求め──抱きしめてほしいと、手を伸ばしたのだ。
「……お母さま……」
絞り出された声は、母を呼ぶ。
母の傍らに寄ったわたしは、彼女の腰にしがみついた。







