【真珠】調部愛花
「あ! もうこんな時間! 大事なことを忘れていた!」
わたしは一刻も早くやらねばならぬ事を思い出し、居ても立ってもいられず慌てて走り出す。
「おい! 真珠! 勝手に走るな!──って、お前は一体何処へ行くんだ?」
後ろから貴志の声がかかり、少し離れたところで振り返る。
「お昼の予約! 名前を書きに行かないと!」
わたしは必死の形相にて足踏みをしつつ、手招きで貴志を呼び、その後ろに控える理香や三人娘にも視線を送る。
「貴志と一緒に予約してくるから、みんなは先に見学していて! すぐに戻るから」
言い終わるや否や、目的地に向かいそそくさと足を進める。
後方から「この阿呆が、離れるな!」という声が聞こえたが、ランチ予約の戦いに、だいぶ遅れを取ってしまったのだ。
お昼の予約待ちの壮絶さをお主らは知らないだろうが、これは食べ物をかけたある種壮絶な戦い── 一刻も早く、予約待ちの用紙に名前を書いておかねばならない!
再入館するためにスタンプを押してもらい、一旦外に出て食事をすることもできるのだが、わたしは科博で食べたい。
できることならば、常設展で展示されている恐竜の化石群を見下ろせるレストラン内最奥の展望席に座りたい。更に、そこで舌鼓を打ちながら悠久の時に思いを馳せ、うっとりとした至福の時間を過ごしたいのだ。
「貴志! 早く来て! 抱っこして! 連れて行って!」
あっと言う間に追いついた貴志に手を伸ばし、ジャンプするように飛びかかる。
貴志は軽々とわたしを抱き上げると、走ることなく目的の場所まで連れて行ってくれた。
それでも、わたしが走るよりは短時間で到着できるのだから、ちょっと悔しい。
階段を登り、開店前のレストランに到着すると、入口手前の右端にランチ予約の用紙が設置されていた。
そこには、既に数グループが名前を書き連ねてあった。残念ながら一番乗りとはいかなかったが、それでも一桁台に名前を書くことができ、わたしはホッと息をつく。
これで一安心だ。
レストランが開く少し前に戻ってくれば、それほど待たずに昼食にありつけるだろう。
記入された名前をザッと確認していたところ、『調部』の文字が目についた。
彼女もここで昼食を摂るのだろうか。
それとも、単なる同姓のグループが記入したもの?
乙女ゲーム『この音』の中で、『伊佐子』は『主人公』でもあった。正確に言うならば、ヒロインを操るプレーヤーだった、が正しい説明になるのだが。
『主人公』になりきって感情移入し、いつしか自らの分身のように扱っていた『愛花』の姿を脳裏に描く。
誰からも愛されることを約束された、可憐な容姿。
頑張り屋さんで、困っている人を見ると放っておけない性格。
肝の座ったところもあるけれど、慈愛の心もあわせ持つ心根の優しい少女。
明るく朗らかで──わたしは誰よりも彼女が好きだった。
ゲームプレイ後、攻略対象の最推しは兄である『月ヶ瀬穂高』になったが、一番応援したくて、最も好きだったキャラクターは、何を隠そう──『主人公』の調部愛花なのだ。
攻略対象の男性陣は出会った当初、揃いも揃って皆それぞれに心の問題を抱えていた。そして、それ故なのか、性格にも難があった。
当時子供だったわたしが、拗くれた男性キャラクターよりも、可愛いくて性格の良い主人公を好ましく思ってしまうのは、ある意味自然な流れだったような気もする。
はっきり言うと、こんな攻略対象のトラウマなんぞ放置プレイでいい。わたしは愛花を愛でることに注力したい、とさえ思っていたのだ。
そう思いながらも彼らを攻略した第一の目的は、可愛い可愛い調部愛花のスチルを集めるためだった。
男性キャラクターに惚れ込んだのは、自分が主人公と気持ちを同化させ、攻略完了させた後のこと──それが、今明かされる新事実だったりする。
今日、この科博に現れた調部愛花が、あの『調部愛花』であるのならば──わたしは間違いなく、彼女のことを好きになる。
そして、彼女を応援したくなる。
愛花の望むことならば、きっと何でも叶えてあげたくなってしまうだろう。
彼女が、貴志を望むとは限らない。
メインヒーローは晴夏なのだから、そのルートを進む確率が高い気もする。でも、そんな予想など、あって無きの如しだ。
彼女が貴志を望んだとしたら、わたしは自分の意思を押し通せるのだろうか。
そして、もしも、貴志が彼女の手を取ろうとした時に、わたしは彼を引き留めることができるのだろうか。
『この音』の世界に思いを馳せ、物思いに耽っていたところ──貴志の声によって現実に呼び戻される。
「真珠、黙り込んで何を考えている? ウェイティング・リストに名前は書いたんだ。そろそろ戻るぞ」
ハッと我に返り、抱き上げられた姿勢のまま貴志の顔を見下ろす。
貴志は、わたしの心を救ってくれた人。
とても大切で、かけがえのない存在。
どうあっても──貴志だけは譲れない。
その気持ちは、決して揺るがない。
わたしは貴志からの言葉に、首を左右に振った。
「あ……、ううん、何でもない。ごめんね。ちょっと、貴志に伝えておきたいことがあって、それを考えていたんだ」
気を取り直したわたしは、思い悩んでいたこととは全く別の科白を口にのせた。
「伝えておきたいこと? 何だ? 改まって」
わたしの態度を訝しんだ貴志は、続きを促す。
「あのね、今夜、エルと会う約束をしていてね。その後で、わたし──貴志と話したいことがあるんだ」
貴志は不思議そうな表情を見せた。
「エルと? ああ、例の場所でか……わかった──それよりも、俺と、話したいこと?」
わたしは彼の双眸を、静かに見つめ返した。
「貴志は、今日……会ったんでしょ? エルが言っていた──『小さな嵐』に」
貴志の瞳に宿る光が、微かに揺らいだように見えた。
『小さな嵐』── 一連の出来事から、『彼女』が其れであると、貴志は理解していたのだろう。







