【真珠】『月光の契り』
エルは深く息を吸うと、まるで歌うようにアルサラームの言葉で祝詞の奏上を始める。
月光が、その降り注ぐ光の量を増したと感じたのは、目の錯覚だったのか。
わたしは黒の聖布越しにシエルの姿を見上げ、その動きを目で追った。
「我が女神──貴女に月の女神シェ・ティの御加護──『月光の契り』を」
『月光の契り』──本来であれは『伴侶』に……それも心を許した者だけに与える儀式だとシエルは語っていた。
彼は聖布の上から、上向くこの顔を両手で包み、わたしの瞳を見つめる。
黒曜石の瞳を見上げると、そこにはわたしの姿が映っていた。
シエルはゆっくりとした動作で腰を落とし、それに伴って生じた神官装束の衣擦れの音が響く。
昼間の儀式を思い出し、わたしはそっと目を閉じた。
彼の気配が徐々に近づき、瞼に影を落とす。
わたしは静かに、その時が訪れるのを待った。
聖布の上から、シエルの唇が重ねられる。
それは、ほんの一瞬のこと。
──触れた場所は、右の瞼。
シェ・ラの前で誓った『伴侶の祝福』とは違い、聖布の上から──直接この肌に触れることのない接吻だった。
薄絹の聖布越しにエルが離れていく気配を感じ、両目を開ける。その視線の先には白く輝く月。
幽き光を地上に降らせる十六夜の月が、この約束を見届けているかのように見えた。
シエルを包んでいた神気が薄れ、その身に纏っていると錯覚した月の光も、いつの間にか消えていた。
途端に、エルが姿を現す──シエルではなく、エル──直感だったが、そう感じた。
「……エル?」
わたしがその名を呼んで確かめると、彼は「上出来だ」とでも言うように満足げな表情を見せ、ゆったりと口角を上げる。
「真珠。その聖布は、今宵の思い出にお前に捧げよう。黒もなかなか似合っている──悪くない」
口調を砕けたものに戻した彼は、既にシエルではなく──エルに戻っていた。
「真珠、ひとつだけ──『天命の女神』の魂の伴侶・葛城貴志が『剣』であるならば、私はお前を守る『盾』──それを……覚えていてほしい」
エルの言葉を受け、わたしは彼に向き直る。
「この時間を与えてくれたこと──感謝している。
お前はそろそろ部屋に戻れ。貴志が痺れを切らしている頃だ」
そう言って、エルは半分だけ開け放たれた鋼鉄製の扉へ向かって歩き出す。
わたしと視線を合わせたエルが、小さな声でそっと囁いた。
「真珠、部屋を出る前に、貴志を起こして相談したのは正解だ。もし、それがなければ──私はお前を……連れ去ろうとしたかもしれない」
わたしは驚いて足を止め、咄嗟にエルを見上げた。
その顔を目にしたエルは自嘲の笑みを洩らし、わたしの背に手を当てると、止まった歩みを再開させる。
「そんな顔をするな……冗談だ。私にとって貴志は、お前と同じく大切な存在。あいつを裏切る真似など……できようもない」
エルは最後に笑顔をのぞかせた──けれど、その瞳には複雑な光が見え隠れする。
それだけは、いくらわたしと言えど、理解できた。
屋上出入口に近づくと、エルは一度歩みを止め、扉の向こう側に落ち着いた声で呼びかける。
「貴志──儀式は恙なく遂行された。もう顔を合わせても問題ない。血の穢れを気遣い、耐えてくれたこと……感謝する」
嗚呼、エルは気づいていたのか。
貴志がわたしを追って、屋上入口で待機していたことを。
「わたしが貴志を起こしたこと、どうして──」
──分かったの?
そう訊ねようとした質問を、エルは途中で遮る。
「お前と貴志の間で今宵結ばれた絆は『魂の契り』。それに加えて、お前はずっと後ろを気にしていただろう?」
前半の言葉はよくわからず、後半の言葉はその通りだ。
やはり一筆書くだけではなく、貴志に伝えてから部屋を出たかったわたしは、寝入る彼を起こし、屋上行きの確認をとった。
そして、その後、わたしは部屋をあとにし、エルと共に屋上へ向かい──今に至る。
貴志は『血の穢れ』のことを気遣い、同じ空間に入らないよう「後から向かう」と言ってくれたのだ。
そう──わたしは、貴志の訪れをずっと待っていた。
エルはわたしを、半分だけ開け放たれた扉の内側に押し入れる。
そこで待機していた貴志と視線が合った。
彼は腕組みをしながら、壁に寄り掛かり、わたしが戻ってくるのを待っていてくれたのだ。
貴志の瞳が、ほんの少しだけ揺れた気がする。
「貴志、来てくれて……ありがとう」
わたしは俯き、そうとだけ伝える。
彼は、そっとわたしの頭を撫でてくれた。
いつもならばここで抱き上げてくれる筈──けれど、今に限ってはそれをしない。
そして、わたしも貴志から少し離れた位置に立ち、エルを視界に入れた。
「あの……エル? 一緒には、戻らないの?」
一向に屋上からホテル内の廊下に入ろうとしない彼を不思議に思い、わたしは訊ねた。
「私は……シェ・ティに祈りを捧げてから戻る。二人に時間をもらったこと──感謝する」
貴志に促され、部屋へ戻るため、エルに背中を向けた。
わたしが先頭に立って歩き始めると、彼が背後を守るようにつき従い、二人の間に少しの距離を保つ。
数メートルほど歩いたところで、エルの声が届く。
「貴志!」
二人で立ち止まり、後ろを振り返ると、エルの周囲がほんのりと光っているように見えた。
「──儀式の際、私は真珠の肌に直接触れてはいない。『祝福』を与えた唯一無二のお前が触れずに慈しむ彼女に、私が触れることはできない。無理を言って……すまなかった。これで、私は──」
最後の言葉は、よく聞こえなかった。
「エル──心配しなくとも、真珠の様子を見れば分かる。話はまた明日以降だ。もうかなり遅い。早く真珠を……休ませたい」
貴志はエルに向かって軽く手をあげた後、わたしと共に廊下を歩き始めた。
曲がり角に差し掛かった時、わたしは一度立ち止まり、屋上の出入口を振り返る。
半開きになった扉のむこうには、エルの後ろ姿。
彼は月の光を纏いながら、夜空を見上げている。
背をこちらに向けているため、その表情はわからない。
どうしてだろう。
何故、その背中に寂しさを感じたのか?
よくわからないまま、わたしは首を傾げた。
エルは、別れ際、貴志になんと言ったのだろう。
聞こえなかった最後の言葉について、考えようとしたけれど、それ以上、エルのことを心に留める余裕は与えられなかった。
角を曲がり、わたしたち二人がエルの視界に入らなくなったところで、貴志の腕が伸び──背後から、突然抱き寄せられたから──







