【真珠】『女神』との逢瀬
──あの日も、貴志はお酒を飲んでいた。
エルの言葉で、唐突にわたしが思い出したのは、『紅葉』の夜だ。
貴志が『何故こんなことになったのか理解できない』と悔やんでいた、あの晩──わたしに記された所有印。
彼は態度にこそ出さなかったけれど、とても苦しんでいた。
もしかしたら、未だに後悔を背負っているのかもしれない。
エルの話を信じるのであれば、貴志を苛んだ行動の元凶を作ったのは──わたしだ。
それを思うと、申し訳なさに胸が痛くなる。
けれど、ひとつの疑問に突き当たる。
彼が月ヶ瀬を訪問した晩も、大人たちは夕食時から酒を酌み交わしていた。
そして深夜、和室での秘め事のような時間でさえも、そんな事態は起こらなかった。
一体どういうことなのだろう。
答えを必死に探すが、分からない。
この混乱を知ってか知らずか、エルは言を継ぐ。
「もしも万が一、身の危険を感じるような事態に遭遇しそうになった時は、その相手に別の酒を飲ませろ。吹きかけるだけでもいい。
複数の酒を体内に取り込めば、酒精に宿る神気が混じり合い、混濁する。そうすれば、研ぎ澄まされた感覚は和らぎ、お前本来の魂の姿を隠してくれる。
成長して、その揺らぎが消失するまでは、心しておけ」
ああ、そういうことなのか。
貴志が口にしたアルコール──
『紅葉』で飲んだのは、手塚さんに勧められた果実酒。
今夜口にしたのは、ホテルから差し入れられたワイン。
双方の共通項──彼が飲んだのは、いずれも一種類の酒。
「酒気の力に関わらず、お前はその『目』だけで、男に揺らぎを与える。貴志は相当苦労していると思うぞ。少しは労ってやれ」
エルは、ため息混じりで「理の違う魂ほど面倒なものはない」と愚痴をこぼした。
…
暫く歩くと、目の前に鋼鉄製の扉が現れた。
エルがその扉を手前に開き、片側の扉を備え付けのフックで固定する。
先に外に向かった彼に続いて、わたしも一歩、足を前に踏み出した。
扉の向こうは、屋上。
気がつかなかったが、台風一過により、いつの間にか雨は完全に上がっていたようだ。
日中の蒸し暑さはどこへやら──少し肌寒いくらいの外気が身を包む。
この気温は、地上から離れた高層階ということも、多少影響しているのだろうか。
見上げれば、そこには雲ひとつない夜空。
雨に洗い流されたのか、淀みのない空気が清々しい。
数歩進んだところで、ビル風が吹き抜けた。
目の前に白いドレスの裾がフワリと広がり、慌てて寝間着を上から抑える。
エルが苦笑しながら手を差し出したが、首を横に振りその手を取ることを断った。
わたしが強風で倒れないよう気を遣ってくれたのは分かったが、ドレスが風にあおられ、おさえる手を離せずにいるのだ。
そのことに気づいたエルは、風に揺れるドレスに黒の聖布を巻きつけ、広がりをおさえてくれた。
「あの……どうもありがとう」
感謝の言葉を伝えると、彼は胸元に手を当て、礼の姿勢をとる。
エルはわたしを気にかけながら、そのままゆっくりと歩き出す。数歩前を進み、屋上の端の手すりに辿り着いたところで、こちらに向き直った。
黒衣を纒った彼の背後には、白く輝く十六夜の月。
太陽神シェ・ラを主神とするアルサラーム神教の最高神官だというのに、何故彼には月の仄かな輝きのほうが似合うのだろう。
闇に溶けこんだような黒の装束が風を受け、音を立ててはためいた。
エルの存在は、暗がりに舞い降りたの月の化身──初めて会った時にも感じたことだが、やはり彼は、とても美しい。
「月が出なければ……こんな深夜にお前を呼び出すこともなかった。おそらくそんな機会は訪れないだろうと──そう踏んでいた私の予想が……珍しく、外れた」
エルは夜空に浮かぶ月を見つめながら、落ち着いた声音でそう語る。
「これも、太陽神シェ・ラと対を成す、月の女神シェ・ティの思し召し──いや、もしかしたら彼女の気紛れなのかもしれない。わたしの定まらぬ心に、迷う時は無いと……いたずらに……『動け』と示唆されたのだ」
風に、黒衣が舞い上がる。
エルの長い上着が翻り、クセのある彼の少し長めの黒髪が靡いた。
「真珠、わたしはお前に……今宵、預けたいものがある」
──預けたいもの?
射し込む月の光が増したのだろうか。
先ほどよりも周囲が明るくなったような気がした。
エルがわたしの目の前で跪き、この右手を取った。
すべての動きが、スローモーションのように映り、現実味を感じることができない。
神気を降ろしているのだろうか、彼の纏う気配が徐々に変わり、その姿に神々しさが宿る。
「我が『天命の女神』──真珠。シェ・ラが見せた夢の中、私が貴女へ抱いた想いは……敬愛。
けれど、この命を永らえさせ、未来を繋いでくれるであろう幻の貴女に向けるこの想いは、いつしか……思慕へと変わっていた──」
彼の口調が変わる。
いや、出会った当初のものに戻った、と言ったほうが正しいのかもしれない。
「夢の中で幾度となく逢瀬を重ね、その身を掻き抱くたび……私は現世で貴女を見つけ出し、いつかその心さえも手に入れたいと希っていた。
けれど、邂逅を遂げた時点で……それは適わぬ想いなのだと理解もした。添うことはおそらくできない。だが、心が告げるのだ──この聖布だけは、わたしの真名と共に貴女に捧げたい──と」
夢での逢瀬?
真名?
聖布を捧げる?
どういうことなのだろう。
貴志の言葉がよみがえる。
『神官は滅多なことでは真名を明かさない』
『教皇の名は秘匿されている』
わたしは『この音』の知識がある故に、彼の真名を知っていた。そう──王族のみが知る筈の教皇聖下の──国家機密級の名前を。
エルはその大切な真名を、わたしに預けると言う。
わたしは咄嗟に、屋上とホテル内部を隔てる、開け放たれた鋼鉄の扉を振り返る。
貴志がこの場にいたら、教えてほしかった。
──エルが、今から成そうとしていることを。







