【真珠】今夜は一緒にいてほしい
和やかな雰囲気でメインディッシュを食べ終わると、まるで見計らっていたかのように柚子のソルベが運ばれてきた。
テーブル上の給仕すべてが完了し、スタッフが退席すると、貴志がわたしを呼び寄せる。
デザートにはまだ手を付けていないけれど、今の話の流れからすると、貴志が食べさせてくれるのかもしれない。
貴志の左の膝に載せられると、思い出す──観客の前でのごっつんこという名の事故チュウをご披露し、まったく気づかないままチャペルを飛び出した時のことを。
捕獲された後、パーティーの席で彼から説教をくらい、常に膝の上で監視下に置かれながら給餌された己の黒歴史。
顔から火を吹くほどの恥ずかしい記憶を思い出して俯いていたところ、貴志がわたしの顎の下に触れた。
この顔を上向かせた彼はソルベを掬うと、わたしの口の中にそっとスプーンを挿し入れる。
久々に感じる貴志の色気にのぼせそうになるが、それに対して口の中には爽やかな柚子の香りが広がる。
色香と爽快さが戦い、均衡を保っている状態だ。
わたしだけが食べさせてもらうのも申し訳なくなり、今度はこちらが貴志に食べさせてあげる順番だと動きだす。
彼が少し戸惑いながら、わたしの様子を見守っている。
「はい! 貴志、アーンして」
スプーンを差し出すと、貴志は突然その動きを硬直させた。
──何故そこで氷になるのだ。
彼が困惑しているのが手に取るようにわかる。
「ソルベ、溶けちゃうよ? ラシードみたいに頬にぶつかっちゃうかもしれないよ?」
ハッと我に返った貴志が、わたしの腕をそっとつかんだ。
その腕を持ったまま、スプーンに近づいたかと思うと、自ら柚子ソルベを食べてしまったのだ。
ぬお!
わたしが運んでお世話をしてあげようと思ったのに、こやつめは自分で口に運んで──わたしの計画を阻止しおった!
「もう! わたしが食べさせてあげたかったのに」
そう言うと、貴志は苦笑する。
「ありがとう。今ので充分だ。これは、意外と……気恥ずかしいものだな。
それよりも、真珠。ラシードがどうしたんだ?」
貴志が笑顔で問いかける。
けれども、何故か目は笑っていない。
「へ? 昼間、貴志とエルがショコラティエで猛禽類の餌食になっている時に、ラシードと食べさせ合いっこをして……遊んでいたの」
スプーンがお互いの頬にぶつかって、おかしさに笑ってしまい──そうだ……その後、頬を舐められ、口づけを落とされたのだった。
咄嗟に指先が頬に触れる。
顔が引きつってしまったのは、完全に不可抗力。
貴志が、わたしのその変化を見逃すはずはなかった。
「ほう? そうか? で、その頬を手で隠す理由は?」
どうしよう。
何かを感じた貴志が、追及の手を伸ばしてくる。
「えへへ……」
「楽しそうだな?」
いや、まったく楽しくない。
冷や汗が出そうになるではないか。
ラシードの行動は、子供の勘違いからきた親愛表現だ。
蛇に睨まれた蛙のような状況から早々に離脱するべく、特に隠す内容でもなかったため、すべてを審らかにする。
そして、ラシードには教育的指導として注意を与えたことも申し添える。
わたしは立派に母親役を成し遂げたのだ、と胸を張った。
貴志が軽い溜め息をついた。
「真珠、お前は……目を離している間に……まったく……」
先ほどまで機嫌がよかったのに、貴志が不機嫌モードに突入してしまった。
「もしかして、怒ってる?」
ラシードへの指導方法が適切ではなかったのかもしれない。
不安になり、恐る恐る訊ねてみる。
「怒ってはいない。お前から目を離すのが……しばらく会えなくなることが……不安になっただけ……ただ、それだけ……」
少し遠い目をして、貴志が自嘲の笑みを洩らす。
ああ……そうだ──貴志の一時帰国までのカウントダウンは始まっている。
数か月間の会えない時間がわたし達を隔てることになり、物理的な距離も生まれるのだ。
毎日を共に過ごし、常に寄り添い、彼に頼り切っていた時間は、もうすぐ終わりを告げようとしている。
不安に苛まれても、抱きしめてくれるこの手は、遥か遠い空の下。
距離だけでも辛いのに、会えないことで、彼の心まで離れてしまったら──忘れていた不安が心の中に湧き上がる。
貴志が今後進む道は、この日本への一時帰国で間違いなく方向性を変えた。
『この音』の『葛城貴志』を凌駕する魅力は、隠せるような代物ではない。
きっと、貴志のこの変わりように、わたしの知らない留学先の人々は興味を持ち、心惹かれていくのだろう。
魅力的な大人の女性が、彼の目の前に現れるかもしれない。
もしそうなったら、こんなちびっ子のわたしのことなんて、彼はきっと忘れてしまう。
近くにいれば、負けるものかと戦えるかもしれない。
でも、離れていたら僅かな変化に気づくことができるのだろうか?
わたしは──自分に自信がないのだ。
貴志と共にいるために、この幼さは有用だった。
けれど、彼を繋ぎとめるような強固な結びつきを望んでも、今のわたしにそれを与えることはできない。
離れている間に、貴志の心の隅にさえも置いてもらえない事態が起きたら──
そう思った瞬間、心が凍る感覚が、この胸を支配する。
咄嗟に彼の首に腕をまわし、強くしがみついた。
「真珠……?」
貴志がわたしの名を呼ぶ。
「貴志、離れても……忘れないで……わたしのこと」
ああ、駄目だ。
声が、震える。
貴志がわたしの表情を確かめようと、両肩に手をかけ、身体を離そうとした。
わたしはそのままの体勢で、頭を振る。
今、この両目を見られるわけにはいかない。
──不覚にも涙が、こぼれ落ちそうになっているのだ。
「真珠? いったい……何を言って……。俺がお前のことを忘れるわけがないだろう? どうした?」
洟をすする音が響く。
わたしが泣いていることを、察知したのだろう。
貴志は何も言わずに、頭を撫でてくれた。
彼はわたしをその腕の中に閉じ込め、強く抱きしめる。
ずっと……ずっと、こうしていられたら良いのに。
──貴志と、片時も離れたくない。
「真珠……泣くな。大丈夫……今夜は、二人で色々な話をしよう」
貴志の穏やかな声が、耳に心地よい。
急に態度を変えたわたしを、落ち着かせようとする様子が伝わる。
「ありがとう……でも、もうすぐ……榊原さんがお迎えに来る時間だもの。ごめんなさい……わたしは大丈夫だから。あと少しだけ……貴志に触れていたい……」
「真珠……」
貴志の少し掠れた声が、わたしの名を囁く。
耳の奥に響くその声は、不思議な艶を孕んでいた。
彼に名を呼ばれるだけで、身体の芯に熱が生じる。
「美沙から連絡があった。月ヶ瀬から、ここへのルートの一部が冠水したらしい。だから……」
わたしは息を呑んだ。
ああ、今夜は──
「今夜は、ずっと……俺と一緒にいてほしい」
わたしは彼と触れ合ったまま、「はい……」と小さな囁きを返し、彼の願いに応じた。
少しでも、彼と同じ時間を過ごしたい。
──それは、わたしの望みでもあったから。







