【真珠】音色捧げの『パヴァーヌ』 後編
エルの生み出す調べの温かさに、涙があふれる。
この繊細な響きは、彼の心模様と同じ。
短調と長調の間を、定まらずに揺らぐ音色。
そこに漂う陰影が、わたしの知らない隠された世界を垣間見せる。
途中で加わる新たなメロディーが、主題の旋律と調和し、どこまでも感傷を呼び覚ます。
まるで石畳の上をゆっくりと歩み、時々振り返っては、思い出を懐かしむような──懐古の調べ。
柔らかに、円やかに──エルの指先が鍵盤に溶け込んでいるかのような、一体感のある音が耳に心地良い。
古き良き時代の思い出をひとつひとつ照らすように、ピアノの音色は明かりを灯しながら過去へと向かう。
彼の織りなす世界は、なんと優しく穏やかなのだろう。
さざめくピアノの音色が、心の琴線に触れる。
爪弾く調べは、幸せを祈る為。
切なる願いは、人々の幸福。
無私無欲──その彼が、唯一求め続けたのが貴志だった。
兄の、貴志の、晴夏の──本来あるべき運命を変えてしまったと嘆いたこともあった。
けれど、これだけは──貴志をエルの元に導けたことだけは、後悔せずにいられそうだ。
エルの心を思うと、切なさに胸が詰まる。
わたしはこれほどまでに滅私の心で、他者を想える人間に出会ったことがない。
この演奏を聴けば、分かる。
──エルは、とても寛容な心を持った、少し不器用な人間だ。
彼は不器用なりに、その心を伊佐子にも開いてくれたのだ。
シェ・ラの導きにより巡り会えた、貴志以外で初めてその心を許せると感じた魂──それが伊佐子なのだろう。
アルサラームの王族にとっての『祝福』とは、わたしや貴志、それから父が考える物よりも、もっと重要で何物にも代えがたい大切な誓約なのではないだろうか。
わたしは本当の意味で『祝福』の重要性を分かっていなかった。
そんな自分が、ラシードからの『友情の祝福』に加えて、エルからの『祝福』を受けるのだ。
彼らの心に対しても、きちんと向かい合わなければいけない。
エルの紡ぐ音色は、どこまでも繊細で、優しさと感傷に彩られている。
ほのかに輝く光の雫が、心の奥底に降り注ぎ、積もり積もって温かな燈火へと変わる。
指先からこぼれ落ちる淡い光が連なり、最終小節へと駆け上がる。
ああ、もっと彼の音色を聴いていたかった。
そんな思いで、最終音に耳を傾ける。
最後の最後まで、彼の奏でた音色は穏やかで、そして美しかった。
残響が霧散する様子を名残惜しく思いながら、閉じた瞼をゆっくりとあける。
エルは顔を上げて、静かにこの双眸を見つめた。
わたしは涙を拭いながら、黙して、彼の言葉を待つ。
「お気に召していただけたようですね。安心いたしました。
我が女神。これで誓約はなされました。これより、貴女はわたしの庇護下に入ったことと見做し、対等な存在として扱わせていただきましょう」
「対等な?」
それはどういうことだろう?
わたしは首を傾げ、エルを見据えた。
そんなわたしの様子を確認したエルは、ニヤリと笑ってから少しぞんざいな口調で話しはじめる。
「そうだ。真珠──お前は、気安い対応を望むのであろう? つまり、そういうことだ」
女神としてではなく、同じ人間として扱うということなのだろうか。
いずれにせよ、言葉遣いを皆と同じようにしてもらえるなら願ったり叶ったりだ。
『我が女神』と言われるたびに荷が重かった故、これで肩の力が抜けるとホッとしたところ、エルはサラリと爆弾発言を投げつける。
「私は、お前に『祝福』を与えた。勿論先程宣言したように求婚の約束だと脅す気はさらさら無い──が、もし、貴志がお前の手を離すようなことがあれば、話は別だ」
「へ?」
わたしを抱き上げる貴志の腕に力が入る。
そんな貴志の様子とわたしの茫然とした表情を交互に見つめ、エルは楽しそうに口角を上げた。
なんというか、悪戯に成功した子供のような無邪気な態度に毒気を抜かれる。
「アルサラームは──いや、私もシードも、喜んでお前のことを王宮へ貰い受けよう。子を数人生んでくれるのであれば、妻はひとりで──お前だけで、充分だ」
ふぁっ⁉
呆気にとられて反応できずにいると、エルはそのまま言葉を続ける。
「もうひとつの魂云々を除いても、『正しき心』を持つお前のことは大変気に入っている。
そうだな……今はまだ子供だが、あと十年もすれば、匂い立つように美しく花開くことだろう。その時、お前に相手がいなければ……その花を私が手折るのも、また一興」
エルは意味深長な笑顔をみせる。
あくまでも神聖スマイルなのだが……。
待って!
無邪気に笑っているけれど、内容はまったくもって無邪気じゃないから!
いや、それどころか完全に爛れている!
わたしは真っ赤になりながら、言葉も発せず、金魚のように口をパクパクとさせるだけだ。
婉曲な表現ではあるが、最高難易度の大人の関係をご希望されているということなのではないか⁉
ど……どうしてくれるのだ。
ちょっと想像してしまったではないか!
こんな稚いお子さまの脳内に、なんという映像を流してくれたのか、この男は。
笑顔は神聖でありながら、言動は破廉恥を極めるとは、まったくとんでもない王子さまだ!
ああ、でも……待てよ?
少し冷静に考えよう。
エルの言葉を本気にしかけたが、彼はわたしをダシにして貴志を困らせ、構い倒したいだけなのかもしれない。
なるほど、そういうことか。
早とちりをして、恥をかくところだった。
しかし、なんとまあ、はた迷惑な!
頼むから、そこにわたしを巻き込まないでいただきたい。
まったく、エルの好意を表現する方法のわかりにくさといったら天下一品だ。
本当に、貴志に対してだけは、愛情表現が捻くれているのだなと、半ば感心するばかり。
自分がエルと『祝福』を結んだことはすっかり棚に上げ、貴志のことを思わず憐れみの眼差しで見つめてしまう。
貴志よ、お前は大変面倒くさい王子さまと『友情の祝福』を結んでしまったのだな。これから頑張れよ。
わたしは少し引き攣った笑顔を張り付け、貴志に激励を送ることにする。
「貴志、エルの、ちょっと……いや、かなり重め? の友情を受け止める度量は大変大変素晴らしいと思う……多分。わたしは、とりあえず静観するから、健闘を祈る! 節度ある友情を育んでくれたまえ!」
わたしの言葉に、貴志は眉間に皺を寄せた。
不機嫌な声も、もれなくついてくる。
「何がどうして、そういう解釈に至ったのか、正直分かりたくもないが、お前の支離滅裂な思考回路には只々恐れ入るばかりだ」
なんだかまた、サラッと貶められた気がする。
貴志はゲンナリした表情で、わたしを一瞥すると、「また増えた……」と、訳の分からん呟きを洩らした。
「え? 何が?」
わたしは反射的に質問する。
返答は無く、地の底から吐き出しているのではないかと思われるような深い深い溜め息が、貴志の口からこぼれ落ちた。
読んでいただきありがとうございます!
今回も2500文字前後になります。
ちょうど良い長さを模索中です(*´ェ`*)
次話、現在推敲中です。







