【真珠】晴夏の涙とピアノトリオ
晴夏に手を引かれながら、わたしはチャペル入口へと戻った。
『天球館』内から、ピアノの音が漏れ聞こえる。
この演奏が終わるまでは、扉を開けることはできない。そのため、晴夏と手を繋いだまま中央扉の前で静かに待つ。
彼は一言も発しようとしない。
その眼差しの奥に、微かな感情の揺れを感じる。
いつもの怒っている時の冷たいものではない──これは動揺?
なんとなく、この沈黙の時間が気まずくなり、気分を変えようと思ったわたしは、先ほどの兄の演奏についての話題を出した。
「ハルは、穂高兄さまの演奏をどう思った?」
晴夏と兄の想い人を完全に理香だと勘違いしていたわたしは、彼に対して放言を吐いたことがある。
その時に、二人の想い人は理香ではないと完全に否定されていた。
お互いに、それぞれの慕う相手の情報を共有している様子が見て取れたので、今日の兄の演奏の素晴らしさについて語り合えるのではないかと思ったのだ。
晴夏の動きが完全に止まり、わたしの手を握るその手に力が入るのが分かった。
彼はチャペルのドアに目を向け、こちらを見ることなく口を開く。
「……悲しみを……いや、とても、愛情深い演奏──だった」
晴夏は、どんな表情をしているのだろう。
その顔は、わたしの位置からは見えない。
けれど、その声は震えている?
兄の演奏を思い出し、その感動がよみがえって声が震えたというわけではなく、彼の心も悲しみに覆われているような気がした。
音楽の話題。しかも兄の演奏についてであれば、晴夏の心も和むかと思ったけれど──何故か彼は黙ったままだ。
「あのね、ハル。笑わないで聞いてくれる?」
とりあえず、こちらを向いてもらいたくて質問形式をとる。
わたしに顔を向けた晴夏は、硬い表情をしていたが、静かに頷いてくれた。
「わたしね。さっきのお兄さまの演奏で、ものすごく恥ずかしい勘違いをしちゃって、質問に行ってたの」
晴夏は何故か大きく息を呑み、目を見開いて動かなくなった。
唇が「まさか」と動いた気がしたけれど、声には出ていなかったからよく分からない。
「あの演奏で『真珠、大好きだよ』って言われた気がして、思わず確認に行っちゃったんだ。お兄さまは『違うよ』って笑ってた。だから、勢いとは言え、なんてことを口にしたんだろうって、顔から火が出そうになったよ」
浅はかなことをしてしまったと俯き、自嘲する。
どうしてわたしは、晴夏にこんな話をしているのだろう。
彼には話しておかなくてはいけない。何故かそんな気がしたのだ。
晴夏は何も言わない。もしかしたら呆気にとられて絶句しているのかもしれない。
わたしは、絶対零度の声が掛かるのを期待していたけれど、彼は何も言ってはくれなかった。
いつもの彼の反応と違う。
伏せていた顔を晴夏に向けると、彼は唇を噛み、その口元を震わせていた。
「やっぱり、そうなのか……? 穂高は……っ」
晴夏がそう呟いた後、彼の瞳から涙が零れ落ちた。
彼は自分の頬を濡らすものの正体に気づくと、わたしの手をパッと離し、口元を押さえて顔を背けてしまった。
「シィ、ごめん。何でもないんだ。先に理香さんのところに戻っていて。僕、ちょっと穂高に会ってくる」
チャペル内の演奏が終わると同時に、わたしは彼の手によって屋内に押し込まれる。
訳が分からないまま、晴夏を振り返ったが、既に扉は閉められ、彼の姿はそこにはなかった。
教会内は演奏が終了したばかりで、拍手の渦の中だ。
発表を終えた奏者が深く礼をしてから、舞台裏へと下がって行った。
出入り口で子供がひとり、ぽつんと立っている状況に、周囲から視線が集まりはじめる。そのため、トボトボと理香の隣に戻ると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「晴夏は? あんたのことを探しに行った筈なんだけど、すれ違ったのかしら?」
わたしは困惑顔で、首を左右に振りながら返答する。
「お兄さまと一緒にいたところを呼びに来てくれて、ハルとはさっきまで一緒にいたんだけど。でも、突然泣き出して、穂高兄さまに会いに行くって……」
理香は怪訝そうな表情をしている。
わたしは不安な気持ちになって、理香の手を握った。
「わたし……また、晴夏を傷つけたのかな……」
落ち込んでいるわたしを元気づけようとしてくれたのか、理香がつないだ手を握り返してくれる。
「どうしたの? 何があったのか話してごらんなさいよ」
わたしがチャペルを抜け出てから今まであったことを掻い摘んで話したところ、理香が困った表情になった。
「それは、真珠のせいじゃないわ。男の子同士で話したいことがあるのよ。気にしなくて大丈夫。あんたは黙って演奏を楽しみなさい。そのうち二人で戻ってくると思うから、席はこのまま確保しておきましょう」
晴夏も理香も、兄の想い人について何か知っているのかもしれない。
兄はこの二人に何か相談をしていたのだろうか。
いや、理香は勘が良いから、見ているだけで気づくこともあったのかもしれない。
「あの演奏……そう言うことだったのか。やってくれたわね。穂高」
理香の言葉に、わたしは首を傾げて彼女を見上げる。
わたしは、物問いたげな目をしていたのだろう。
彼女はフフッと笑って答えてくれた。
「あんたの『お兄さま』は、ちゃんとお兄さましているってことよ。大事にされてるわね」
理香のその呟きに「それって、どういうこと?」と訊ねようと口を開きかけたとき、次の演奏者が登壇し、拍手がわき起こった。
これ以上は小声とは言え、会話をすることはできない。
わたしは演奏鑑賞に意識を集中させるべく、視線を舞台に戻す。
そこから気づくと三組の演奏が終わっていた。
次は貴志たちの三重奏だ。
晴夏と兄は未だ戻ってこない。
心配になっていると、舞台裏へとつながる側廊奥にある扉から、晴夏と共に兄が現れた。
理香が手を上げて、ここよ、と手招きする。
もともと晴夏が座っていた席を確保するために置かれたショールをどかし、花束を纏めてあった席からそれらを移動する。
「理香さん、お手数をおかけして申し訳ありません」
兄が恐縮して、理香にペコリと頭を垂れる。
「いいのよ。それより、二人とも気分はどう? 落ち着いたの?」
その言葉に二人は目を見合わせ、照れ笑いを浮かべながら「はい。ありがとうございます」と伝えている。
兄も晴夏もすっきりとした表情をしていた。
「舞台裏で、貴志さんたちと話をしていたんです。ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫です。自分で、決めたことですから」
理香がその言葉を聞き、兄の頭をツンと小突いた。
「この判断が正しかった──って、いつかそう思える日が、来るといいわね。見直したわよ」
そのまま立ち上がった彼女は、花束置きになっていた席に移動して着席した。
兄がわたしの左隣に腰かけ、右には晴夏が座る。理香はその隣だ。
彼女からそれぞれが花束を渡され、椅子の下に保管する。
会場が少し騒がしくなり始めた。
次の演奏グループの為、舞台設営スタッフが二脚の椅子と譜面台をステージに運び始めたのだ。
片方の椅子には、チェロのロックストップが嵌められた。
プログラムには、三人の男性名が記されている。
葛城貴志、加山良治、そして市川綾乃丞──咲也の芸名だ。
咲也は彼のSNSで、今日の演奏を動画でアップロードすると言っていた。
もしかしたら事前告知のような形で、彼のファンへ向けての情報も上げているのかもしれない。
チャペル内の会話から「綾サマ」とか「チェロ王子」という単語が耳に届く。
会場内にアナウンスが響いた。
貴志を先頭に、加山、そして咲也が舞台に現れる。
三人共、黒のスーツとシャツを着用し、ノーネクタイだ。
目をひく容姿の男性三人組の登場に、シャッター音がそこかしこで生まれる。
そのざわめきの中、颯爽とした足どりで黒いパンツスーツ姿の紅子が登場すると、会場にどよめきが走った。
彼女は一礼した後、咲也の左隣に設置された椅子に腰かける。完全に裏方に徹するつもりのようで、いつものような華やかな出で立ちではない。
すわ、チェロ王子を巡る攻防か⁉──と、館内に緊張が走った。だが、咲也と紅子が二言三言交わす姿を見て、その緊張はすぐに解かれた。
「紅子、いつもと雰囲気が違うね。口紅も赤くないよ」
わたしは両隣に座る、兄と晴夏に話しかけた。
「母は多分、とても楽しんでいると思う。目が輝いている」
うん、それは何となく感じる。
わたしは晴夏に首肯した。
兄は微笑みながら、わたしに言葉をかけてくれる。
「貴志さんが、僕達にこの演奏をしっかり聴いておけって言っていたよ」
兄の言葉にもコクリと頷いた。
両隣に座る王子と貴公子はお互いの顔を見合わせて微笑みあうと、わたしに手を差し伸べた。
「「姫、お手をどうぞ」」
わたしは驚いて、固まってしまった。
こういった場合は、どちらの手を取るべきなのだろう?
貴志と加山と咲也が、一瞬だけこちらを見て微笑んだのが分かった。
理香と紅子も瞳を輝かせながら注視している。
こういう場合って、どちらか一方の手を取るんだよね?
どうしよう。
どっちも選べない。
両方の手を取っても良いのだろうか?
貴志に助けを求めると、彼はとても楽しそうな笑顔を見せたあと、兄と晴夏の両方に目配せしている。
まったく意味が分からなくてドギマギしていたところ、両隣から同時に手を繋がれた。
こ、これは、許されるのだろうか?
両手に花──ならぬ、両手に美少年。
ものすごい役得だが、周囲の目が怖い。
とんでもなく気の多い女に見えるのではないだろうか。
いや、でも待て、今のわたしは単なる小さな子供だ。
微笑ましい図になっているのかもしれない。
舞台上の大人四人を見ると、なぜかとても満足そうな表情だ。
まあ、いいか──二人とも、大切な兄と友人だ。
わたし自身に邪な気持ちはないし、貴志もそれでいいと思っているようだ。
兄と笑い合い、晴夏と微笑み合い、それぞれの手に指を絡ませて強く握る。
それを見届けた美青年三人組は、お互いに意識を集中させる。
緊張感を孕んだ短音の塊が貴志のチェロから生み出され、チャペル内に響き渡った。







