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【真珠】寂寞のチャペルにて 後編


 祭壇からこぼれる柔らかな明かりが兄を包み、側廊上部の窓からは幾筋もの月光が降り注ぐ。


 日中の『天球館』内とは異なる静謐な空気の中──彼はステンドグラスの下で、こちらに顔だけ向けて佇んでいる。


「驚いた……真珠、いつからそこにいたの?」


 ──少し震える声?


 今は照明もステージとなる祭壇上を除き、全て落とされている。

 突然わたしが現れたことで、兄を驚かせてしまったのかもしれない。


 不自然なほど即座に笑顔の仮面をつけた彼に、ひどく違和感を覚えたのは、つい今しがたのこと。

 けれど、あれは見間違いだったのか?


 今の彼からは、そんな動揺があったことなどおくびにも出さない、柔和な笑顔がこちらに向けられている。


 兄は演奏前に集中力が切れないよう、静かなチャペルでイメージトレーニングをしていたのだろうか。


 黙って彼を見つめていると、その表情に困った笑顔が浮かんだ。

 それは、貴志と尊が時々見せた、わたしを不安にさせるあの笑顔と同種のもの。


 兄はわたしがこの場に現れることを想定していなかったため、どう対応するべきか、迷っているのかもしれない。


 その様子を目の当たりにし、彼を追ってここへ来るべきではなかったことを今更ながらに悟った。


「ごめんなさい。お邪魔してしまって……もう、戻りますね」


 そう言って、(きびす)を返したところ──


「待って!」


 兄が慌ててわたしを呼び止めた。

 悲痛な叫びにも似た声に驚き、振り返る。


 兄はわたしを引き留めようと、咄嗟に腕を伸ばしたのだろうか。その声に驚いたわたしが振り向くのと同時に、空をかいたその手を、ぎこちない動作で引き戻した。


 いつもと様子の違う彼を訝しく思い、わたしは吸い寄せられるように祭壇上の兄のもとへ足を向ける。


 本当にどうしたのだろう。

 何かあったのだろうか。


「お兄さま……? 大丈夫ですか? 具合でも……悪いのですか?」


 心配になって彼の目の前に立ち、その顔を見上げる。


 わたしを見下ろす兄の瞳には、寂しげな光が揺れていた。


「ごめんね。驚かせてしまって。心配しなくても大丈夫だよ……僕は──自分で、決めたんだから」


 兄はまるで自分に言い聞かせるように、不思議な科白を口に出した。


「お兄さま?」


 再び困った笑顔を見せた兄は、わたしの手を引くと、祭壇の中央まで連れて行ってくれた。

 その場所に立つと、祭壇後方にそびえる巨大なステンドグラスの全容が見渡せた。


「真珠、見て。綺麗なステンドグラスだね。これは太陽の周りを回る惑星をあらわしているんだ」


 大きな太陽が全ての惑星を包み込むよう、背景として描かれている。そのガラス細工の日輪の上には、太陽系の惑星と衛星がバランスよく配置されていた。


 兄は、その中のひとつ──青と緑と白の細かなガラス片で作られた、地球と思われる細工を指差す。


「あれが地球。その隣にあるのが月。分かるかな?」


 兄の手の動きにあわせて、今度はガラス細工の満月に視線を移し、共に眺める。


 金色の細枠に嵌め込まれた月が、背面の太陽に寄り添うように飾られている。細部まで見ると、月のクレーターを表現する部分には真珠が埋め込まれ、淡い光を放っていた。



「このガラスの月を見て、ある人を思い浮かべていたんだ」



 兄は真珠の嵌め込まれた月を瞳におさめた後、わたしに身体を向けた。

 横顔に彼の視線を感じ、隣に立つ兄を再度この目でとらえる。



「今夜、僕が弾く曲はドビュッシーの『月の光』──僕はこの曲を『大切な人』の為に捧げようと思う」



 兄はそう告げると、その視線を再びステンドグラスへ戻す。

 今度はわたしが彼の横顔を見つめる番となった。



 兄は掌を胸元に当て、静かに言葉を紡ぐ。




「夜空から降り注ぐ『月の光』が、僕の『大切な人』を包み、守ってくれますように──そんな思いを込めて……弾くよ」




 兄がわたしに見せる表面上の笑顔は、紛れもなく穏やかに映る──うつる筈なのに、その表情に反して、この心に伝わる彼の感情は、何故これほどまでに切なく苦しいのだろう。


 その胸の内に、どんな思いが秘められてるのか、わたしには分からない。


 兄の『想い人』とは、いったい誰?

 もし本当に叶わぬ想いだと言うのならば、わたしは何と言って、彼を慰めたらいいのだろう。


 妹として、兄の為に何かできることはないだろうか。


 何度考えても、答えは出ない。



 けれど、今のわたしが彼の為にできることが、ひとつだけあることに気づく。


 それは、兄の想い人の代わりに、彼の捧げる音色を受け止めることだ。



 わたしは兄の目を真っ直ぐ見つめる。




「わたしでは力不足かもしれません……ですが、お兄さまの大切な方に代わり、その想いをしっかり受け止めます。

 ご存知でしたか? 『月の光』は、わたしの大好きな曲のひとつなんです。代わりだとしても、この曲を捧げていただけることが、とても嬉しい……」




 わたしは穏やかな微笑を作り、頼りなげに佇む彼の身体をこの腕でそっと包んだ。


 兄はわたしの行動に息を呑むと、小さな声で答えてくれた。



「そう……知らなかったよ。僕の選んだこの曲が、君の好きな曲で、本当に……良かった……」



 笑顔なのに、今にも泣き出しそうに見えるのは、何故だろう?


 わたしは、兄から少しだけ身体を離し、その頬を両手で包み込む。幼い外見のわたしが、こんなことを言っても何も力にはなれないことは分かっている。


 けれど、兄の心を少しでも支えたかった。



「わたしは、これからもずっとお兄さまの傍で、その想いが届きますようにと、応援しています。いつか、ご本人にその心が届くと良いですね」



 わたしを見下ろす彼の口元が、何かを堪えようとして震えた。暫く、その震えが治まるまで唇を噛んだあと、兄は語る。



「僕は……大丈夫だから。応援してくれて、ありがとう。でもね、今日の演奏で、この気持ちは終わりにするんだ。そうしないと、いけないんだ。僕がけじめをつけるために、代役をお願いするなんて、君に対して失礼だよね。でも……こうするしか、方法が見つからなかったんだ」



 掠れた声が耳に届く。

 兄は、わたしの頭を何度も撫でてくれた。


 抱きしめていないと消えてしまいそうな気がして、兄の背中に再び両腕をまわし、その胸に顔をうずめた。



 大丈夫。わたしがちゃんと受け止めるから──そんな思いを込めて、彼の身体にまわしたこの手の力を、更に強くする。



 兄もわたしの背中に両手をまわし、いつもより強い力で抱き締めてくれた。



 わたしを代役としたことに対して申し訳なく思っている兄の気持ちを、少しでも軽くしたくて、そのままの姿勢で口を開く。



「身代わりとしてではなく、わたしに捧げていただくと──そう思って拝聴します。少し……図々しいかもしれませんが……だから、失礼だなんておっしゃらないでください」



 兄は今、どんな表情をしているのだろう。

 寄り添うように抱きしめ合っているので、その相貌は見えない。



「ありがとう。本当に……大好きだよ、真珠。君は僕の自慢の──『妹』だ」



 わたしはゆっくりとした動作で顔を上げ、兄の瞳を見つめる。


 先程まで、彼の心の不安定さが見え隠れしていたふたつの眼に、急に光が灯ったような気がした。

 何かを決心したその瞳は、凛とした強い意志を秘めているよう、わたしの心に映る。


 本心を、笑顔で隠そうとする彼。

 その瞳の奥に眠りにつこうとしている、本当の気持ち。


 その想いに訴えかけるよう、わたしは伝える。


 独りで苦しまないで欲しい。

 妹のわたしで申し訳ないけれど、兄の心が癒やされるまで、傍にいて支えるから──そんな願いを込めて。




「その大切な方の代わりにはならないでしょうが、わたしはずっとお兄さまと一緒です。一番近い場所にいることができて、とても幸せです。壊れることのない兄妹の絆がある。お兄さまの心が癒やされるまで傍で支えます。だから、元気を出してください」



 兄は目を見開いて暫く呼吸を止めた後、微笑んだ気がした。



「そうだね……ありがとう。分かっているよ。僕も……君が『妹』で、幸せなんだ」



 わたしは兄の為──彼が想い人へと捧げる曲を、この心のすべてで以て受け止めよう。


 彼の演奏を感じ、魂を重ね合わせよう。



 それがきっと、苦しい恋と決別すると決めた、兄の心への手向けになる筈だから。




「慰めてくれてありがとう。頼りなくて、ごめんね。でも、今日までは……許してほしい。明日からは、しっかりした君の『兄』に戻るから。

 真珠……ありがとう。君は僕の、最愛の『妹』だ──」




 そう耳元で囁いた彼は、わたしの額に口づけを落とした。


 珍しい兄の行動にわたしが驚き、彼の唇が触れた箇所を手でおさえる。その一連の動作を間近で見ていた兄が、フフッと優しく微笑んだ。


 その笑顔と同時に、館内全体に照明が(とも)る。


 会場設営スタッフが配付するプログラムを携え、チャペル内の点検に現れたようだ。


 兄が祭壇から降り、わたしに手を差し伸べた。


「戻ろうか、真珠。そろそろ時間みたいだ」


 その手を取り、彼と共に広場へ向かう。

 食事と談笑を終えた大人たちが、兄とわたしの姿を認めると立ち上がり、宿泊棟へ戻る準備をはじめた。


 わたしと兄は、祖母が待つ『星川』へ戻り準備をする。

 隣室『天ノ原』へ向かう咲也と共に本館へと向かった。




 『クラシックの夕べ』夜の部の幕が開く。


 ──演奏開始時間は、もう間近。




 紺青の夜空には、(さや)けき光をその身に宿した望月が浮かぶ。


 乳白色の満月からは、『月の光』が静かに降り注ぐ──遥か遠い地上へと零れ落ちた、『月の雫』の行く末を見守るかのように。




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『その悪役令嬢、音楽家をめざす!』
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