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【真珠】『Je Te Veux - あなたが欲しい - 』 3

 チェロから生み出される深い響きが、チャペル内に広がっていく。


 観客達は、その慈しみに満ちた音色に、感嘆の溜め息を落とす。


 華やかな風貌の年若い青年が、ここまで人の心を打つ調べを爪弾けるのか──と、特に年配の鑑賞客が驚いているようだ。


 巷間を騒がせている彼の姿をひと目見ようと、野次馬に近い気持ちで集まった観光客や宿泊客も多かった。

 けれど、好奇の目で彼を見ていた輩でさえも、この情緒溢れる演奏に感性を刺激され、目を潤ませている。


 自分の心の奥底に眠る記憶を呼び覚ますようなその音に触れ、各々の胸に去来した感情を追懐しているのだろうか、会場内には洟をすする音がそこかしこで生まれた。



 貴志の音色は、圧倒的な表現力を以て、人々の心を虜にしたのだ。



          …



 形の良い左手がフィンガーボードを移動し、ポジションを変えながら巧みに弦を押さえていく。


 長い指先が舞うように黒の指板上を滑り、その流麗な指さばきに目を奪われる。


 ヴィブラートをかける指の振動幅を一音一音で微妙に変え、細心の注意を払いながら音に色を加える。

 それを巧みに操る様は自然体──けれど一朝一夕で身につくような技術ではない。

 体に染みついたその感覚により、選び取られた音は、最上の調べ。


 彼が常日頃から、たゆまぬ努力をし続けてきたという証拠だ。


 右手で操る弓は、まるで彼の腕と一体になったかのように弦の上で踊る。

 時には全弓で、時には弓先で音を変化させ、自分の望む音色を紡いでいく。


 物思いに耽りながらチェロをかき鳴らすその姿は、どこか儚げであり、神々しくもあった。


 伏し目がちに演奏に没頭する彼は、何を思い、その曲を奏でているのだろう。


 どんな記憶に、思いを馳せているのだろう──観客たちは時間を追うごとに、彼の織りなす音の世界に魅せられていった。



          ***



 身体が震える──貴志の奏でる、慈しみに満ちた音色を耳にして。

 心が震える──溺れるほどの愛情を注がれる、嬉しさに。


 何故わたしは、彼の捧げる音色に潜む意味を、こんなにも容易(たやす)く理解できたのだろう。

 彼は、何故──わたしがこの演奏に込められた意味を、理解できると思ったのだろう。


 この演奏が終わったら、その理由を訊いてみたい。

 けれど、この愛に溢れた音色をずっと聴いていたい。

 ──ふたつの相反する気持ちが(せめ)ぎ合う。


 零れ落ちる涙を拭うことができない。

 涙で不明瞭な視界ではあるけれど、貴志をもっと見ていたい。


 震えるわたしの両肩に、兄の掌が置かれた。

 理香がわたしの左手を包み、晴夏の左手がわたしの右手に重なる。

 彼等は震えるわたしを気遣いつつも、誰ひとりとして言葉を発することなく、貴志の演奏を注視している。


 貴志の演奏が主題に戻る。

 全てを包み込む穏やかな旋律に切ない響きが加わり、感傷と慈愛を謳いあげる。


 ああ、もう──終わってしまう。

 もっと、ずっと、聴いていたいのに。


 最終小節に向けて、ゆっくりとしたテンポに変わると、その音色の中に温かな旋律が戻る。


 彼が加えたアレンジなのだろうか、美しく重なる和音をピッツィカートで何度も響かせ、余韻を残す音色が教会内に木霊した。





 反響音が消えるまで、誰ひとり動かない。


 貴志は伏せていた目を完全に閉じ、その残響が消えるまでの短い時を待つ──そして、完全なる静寂がその場を支配した。


 彼がゆっくりとその瞼を開ける。

 その場には、拍手を送ることすら完全に失念した、空白の時が訪れていた。

 観客たちは貴志の演奏に引き込まれ、現実に戻れないままでいるようだ。


 我に返った人々の息を呑むような音が周囲に生まれ、突然──割れんばかりの大きな拍手が轟いた。

 喝采を贈る人々が、ひとり、また一人と立ち上がり、その動きは館内に広がっていく。


 皆が手を叩き、惜しみない賛辞を彼に贈った。


 観客席に向けて目礼をした貴志は、次いでこちらに視線を向ける。

 彼は、わたしの泣きはらした目に気づくと息を呑み、そして目を見張った。


 驚きを隠せずにいるようで、その表情から彼の動揺が伝わる。

 

 貴志は自分の胸元のシャツをネクタイごと掴むと目を閉じ、浅い息を吐いた。

 奥歯を噛みしめ、天井を仰ぐ姿勢をとった彼は、何かを堪えているように見える。


 スタンディングオベーションの中、礼の姿勢をとり、貴志はいったん舞台裏へと下がった。

 鳴りやまない拍手の中、チェロを手に再度舞台に上がり二度目の礼を加山と共にとる。


 貴志は、その秀麗な面に柔和な微笑みを湛える。

 今まで一度も目にしたことのない、朗らかな笑顔だった。


 理香が花束を持って加山の元へ向かう。その途中で、わたしを振り返った彼女は片目をパチッと閉じる。


 兄がわたしの背中を押し、早く花を届けろと促した。 

 晴夏が椅子の下に置かれた花束を取り出し、わたしに手渡す。


 本当なら、貴志の元に走り寄って、そのまま跳びつきたい。

 それくらい素晴らしい演奏だった。


 けれど、今はそれが出来ない。


 涙が止まらず、 我慢していたのに嗚咽が洩れる。

 身体の震えが止まらず、足元が覚束ない。


 一人で立ち上がれない状態なのだ。


 こちらを気にしていた咲也が、なかなか花束を渡しに行かないわたしに痺れを切らしたようで、突然目の前に現れる。


「ほら、真珠、何やってるんだよ。行くぞ?」


 手を引いて立ち上がらせようとする咲也に、動けない旨を伝える。


「む……無理……足が震えて、歩けない……」


 頑張って立ってみたのだが、足がプルプルする。

 まるで、生まれたての子鹿のようだ。


「は? お前は……陸に上がった『人魚姫』か! 貴志が待ってる。抱き上げてやるから行くぞ」


 咲也がわたしを抱き上げようとする動作に入ったことに気づき、わたしは思わず反射的に声をあげる。




「──っやだ!」



 抱き上げられるなら、抱きしめられるなら、その相手は──





 途端に力が抜けて、わたしはペタリと床にしゃがみ込んだ。


 咲也が、仕方ないなと言いながら溜め息を吐いている。


「じゃあ、ほら花を貸せ。真珠? なに固まってるんだよ、大丈夫か?」


 咲也はそう言って、わたしから花束を取り上げる。




 あれ? いや? ねえ? なんだ? これは?



 チョット待て!



 わたしは今、何を考えた!?



 自分の頭の中に浮かんだ考えに、茫然として思考回路がショート寸前だ。いや、もう既に正常に動いていないかもしれない。


 

 駄目だ。なんだかよく分からない感情が心の中を支配している。



 抱き上げられるなら?

 抱きしめられるなら?

 ──誰の顔が、思い浮かんだ?


 わたしはギギギと鳴りそうなぎこちない動きで、首だけを貴志に向ける。


 その顔を向けた先には、花束を持った咲也とチェロを抱えた貴志の二人が佇んでいる。


 咲也が貴志に何事かを伝え、親指でわたしのことを指差す。

 どうやら「チェロを預かるから、とりあえず真珠を持ってこい」と貴志に伝えているようだ。


 わたしは物か!

 そこは用法的には「連れてこい」が正しいと指摘したい──のだが、今はそれどころではない。


 この自分の中で渦巻く、得体の知れない気持ちは一体何なのだろう。




 先ほど自問自答した時、脳裏を掠めたのは──貴志。


 貴志以外に抱き上げられるのは、嫌だと──わたしは間違いなく思ったのだ。




 舞台から降りてきた貴志がわたしの元に歩み寄る──が、わたしは混乱の真っ只中。


 どうしよう。

 どうしたらいい?



 と……とりあえず逃げなくてはならん──いつもの逃亡癖が、こんな時に顔を出す。



 足が震えて歩けないし、走れない。


 でも、今、貴志に近づいたら自分が何を口走るのか、更にはどんな行動に出てしまうのか全く想像がつかない。

 大混乱の極みなのだ。

 正常な行動ができるとは思えない。


 この衆目の集まるチャペルは、動画撮影や写真撮影に興じているお客様方で溢れ返っている。


 今、この心の混乱状態で、貴志に近寄ってはいけない。絶対に絶対に、駄目なものは駄目だ。


 それだけはいくら残念なポンコツ脳を持つわたしにでも分かる。



 よって、わたしは咄嗟にドレスの裾をたくし上げ、這い這い(ハイハイ)でバージンロードへ逃げることにした。



 お前は赤ちゃんか! と、呆れられようが一向に構わない。

 それよりも、自分の行動が読めないことの方が問題なのだ。


 今は『赤子』というレッテルを甘んじて受け入れよう。


「は? 真珠? お前は一体どこへ行くんだ!? おい! そこで止まれ!」


 貴志が慌ててわたしを追いかける。

 顔は見えないが、唖然とした響きがその声に含まれているのは分かった。


 だが、その制止の声を振り切り、わたしは必死で高速ハイハイだ。


 ここは是非とも逃げ切らねばならぬ!

 わたしの沽券にかけて。



 兄が「え? 真珠? ちょっと! どこに行くの?」と席を飛び越え、わたしを追いかける。


 晴夏が「シィ、今度は何をはじめる気なんだ」と絶対零度ボイスで溜め息をつき、こちらに向かってくる。



 所詮、子供の逃亡劇。

 しかも逃走方法は、なんとハイハイ。


 あっという間に、わたしは貴志の腕に捕獲されることと相成った。


「何故、逃げる!?」


 貴志は、わたしの胴に腕をまわすと、小脇に抱えて舞台に戻っていく。

 抱っこさえしてくれない。

 これではまるで荷物のようではないか!


 そんなことを思いつつも、わたしの頭は必死に言葉を探す。今現在の自分の危険性に触れて、なんとか見逃してもらえないかお願いしなければならない。


「だって、今のわたしは何をするか分からん! もしかしたら他人(ひと)様の前でお前にとんでもないことをして、嫁に行けなくなるやもしれん。いや、わたしはいい、お前が貞操の危機かもしれんのだ──だからっ お願いします。貴志、離して。どうか見逃してください!」


 もう破れかぶれで、思いつく言葉を只管並べ立て、離せとジタバタ暴れ、最後は泣き落とし作戦で懇願してみる。


「なんだそれは!? お前は相変わらず訳がわからん! 褒美じゃなくて仕置きをするぞ!」


 貴志は眉間に皺を寄せている。微妙に不機嫌オーラも出始めている。


 彼が舞台の端にて客席に腰を折ると、インターミッションに入るアナウンスが流れ出す。


 このままわたしは舞台裏に連行されるようだ。


「穂高、晴夏、悪いが、少しの間、こいつを借りていくぞ」


 貴志が兄と晴夏に声をかけると、双方ともコクリと頷く。

 いや、そこは、是非阻止してくれ──と思うが、二人とも手を振って見送っている。ドナドナされる仔牛の気持ちが、いま理解できた。


「おい! 貴志!」


 紅子の声が届く。

 おお、紅子よ、お前がわたしを助けてくれるのか!


 そう思って顔を上げると、紅子は楽しそうに目を輝かせてこちらを見ていた。


 駄目だ。彼女のその目を見ただけで分かってしまった。

 紅子はわたしの救世主に、なってはくれないようだ。


「貴志、何をする気だ?」


  口角を上げ、目を細めた紅子のその科白に、貴志はいつもの寸劇の仕返しとばかりに、余裕たっぷりの表情で微笑んだ。


「お前の想像に任せるよ。紅」


 貴志はそれだけ言うと歩き出す。わたしを荷物のように抱えて。


「貴志、いいか? 節度は守れよ!」


 紅子のそんな科白に、彼は上半身だけ振り返る。

 貴志はそれには答えず、今度は色気駄々洩れの表情で艶やかに笑うと、わたしをフワリと抱き上げた。


 目の前の景色が変わる。


 

 貴志の頭より少し高い位置から見下ろすと、彼の目とわたしのそれが交差した。


 駄目だ。目が離せない。

 どうしよう。



 愛し気にわたしを見上げる彼は、陽だまりのような優しい笑顔を見せる。



「やっと捕まえた。真珠──お前を」



 ──もう諦めよう。

 彼の演奏に対する返礼を、わたしもしなければならない。



「貴志、勝負の答え合わせをしよう。多分、わたしの勝ちだと思う」



 貴志は、わたしのその科白に屈託なく笑った。



「どうやら、そのようだな」



 わたしも彼につられて笑い出す。



 ひとしきり笑った後、わたしは貴志の首に腕をまわし、ギュッと強く──抱きついた。









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