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【鷹司晴夏】「真珠の手綱を握れ!」

本日、2話更新です。


 まさかの事態が起こった。

 ──真珠が僕たちの伴奏者に理香を指名したのだ。


 後から慌てて飛び込んできた貴志さんと穂高は、目を剥いている。


 僕も驚いた。

 要注意人物が、救助者に変わり──そして、今は伴奏者?


 確かに彼女のピアノの音色は、とても真っ直ぐだった。


 その音を聴いたからなのだろうか──真珠は理香の心根を疑うこと無く、伴奏者に指名したのだ。

 しかも、母もそれについては同意しているという。


 なぜだろう?

 どうして、こんなことになったのだろう?


 しかも、今日は真珠の様子がおかしい。

 貴志さんに対する態度だけが、いつもと違うのだ。


 今朝、タオルで冷やしていた腫れた赤い瞼が脳裏に浮かぶ。

 あれと何か関係があるのだろうか?


 そんなことを考えていたところ、スプーンですくったドリアを冷ますことなく口に入れてしまった。


 熱さに僕は声を洩らした。

 その声に気づいた真珠が、すかさず僕の顎を引き寄せる。


 彼女のこういった反応の速さには辟易する。

 舌を出せと言われたが、出せるわけがない。


 どうやって、彼女の手から逃れようかと考える──が、焦って固まってしまった僕の身体は、真珠のされるがままになってしまったのだ。


 彼女は僕の顎の下を指三本ほどでグイッと押し上げた。


 舌下に苦しさを覚えて、思わず火傷をした舌を出してしまう。

 彼女は、どうしてこうも、人の身体の反応する場所を熟知しているのだろう。


 嘆きたい思いでいたところ、舌先に氷が押し当てられた。


「わたし、ハルのお母さんみたいだね。いや、でもそれって紅子ってこと? それはちょっと……う~ん……」


 そんなことを小声で呟いているが、頭に入ってこない。


 そして貴志さんも真珠に対して何故かご立腹のようだ。

 二人の様子のおかしさを不思議に思い観察していたところ、真珠が彼と目を合わせることを避けているようなのだ。


 彼女は貴志さんと目が合うたびに、その視線をサッと逸らしている。

 かと言って、貴志さんのことを嫌っているという訳ではなく、気になって仕方がないという表情も見受けられる。


 それはこの場にいるみんなが気づいていることなのだが、僕一人だけがハラハラして見守っている状況だ。

 理香さんは楽しんでいて、加山さんは様子をうかがっているだけ──この二人は特に心配している様子はない。


 昼食後、宿泊棟へ戻る時も、彼女は貴志さんの腕をすり抜けたらしい。


 彼が彼女を抱き上げようとしているのを目にしたので、僕は先にガゼヴォへの道を進んでいたのだが、突然真珠が僕の隣に現れたのだ。


 本当に彼らはどうしてしまったのだろう?


 真珠は僕の隣まで来ると、火傷は大丈夫かと訊いてきたので、大丈夫だと伝える。


 ああ、そうだ──穂高が言っていた。

 『移動中は手を繋いでいる』と。


 貴志さんが彼女を抱き上げないのならば、僕が彼女の手を繋いで守る必要がある。

 僕が左手を出すと、真珠は右手を僕の掌にのせた。


 先ほど、知らない女性に掴まれた彼女の腕と手が無事だったことにホッとする。

 あの音色を作り上げる手と指──何があっても守らなければならない。


 ふと貴志さんが目に入る。

 彼は溜め息をついて、複雑な──なんと表現したらよいのか分からない色をその双眸に湛えていた。


 真珠と貴志さん──このままで大丈夫なのだろうか?

 なぜか僕は心配になった。



 二人が仲違いしている様子は、あまり見ていたくないのだ。


 貴志さんに負けたくない──そう思う反面、何故か二人が一緒にいる姿をみるとホッと安堵するのも事実。


 早く、真珠と貴志さんの様子が元に戻るとよいのに──そんな思いで、彼女の手をギュッと握りしめた。


 僕のそんな不安も、その後に出会った不思議な人──女性の恰好をした男性のおかげで解消された。

 あの咲子──いや、咲也という人と出会ってから、真珠は貴志さんから目を逸らさなくなった。


 貴志さんもホッとしているようで、その表情は穏やかなものに変わっていた。


 僕はその二人の様子を目にすると、喉元が苦しくなる。けれど、胸を撫でおろしている自分にも気づき、不可思議な気持ちになった。



          …




「ねえ、ハル。バイオリンをちょっと見せて?」


 明日が『クラシックの夕べ』最終日となった金曜日の午前中。

 理香さんの部屋で音合わせを開始した直後、真珠がそう言った。


 彼女は自分のバイオリンをケースに戻してから、僕のバイオリンを手に取った。


「音──か?」


 僕は真珠に訊ねた。

 彼女はコクリと頷いて、僕のバイオリンを確認している。


 今朝は、何故か音が響かないのだ。

 音色が甘いと言うのだろうか。いつもの深い調べが生み出せない。


 真珠は理香さんに許可を取ると寝室に入り、ベッドの上でバイオリンを目の高さに持ち上げる。

 楽器を目と水平にして、駒と弦を確認しているようだ。


「ああ、やっぱりそうだ。ブリッジが少し斜めになってる。これを直せば元に戻ると思う。良かった」


 真珠はそう言って、その緊張を解いた。


「今のわたしの力だと……直すのはやめておいたほうがいいだろうな……。万が一、サウンドポストを倒したらシャレにならないもんね」


 彼女はそう呟くと理香さんに訊ねる。


「理香、加山ンはいつここに来るの? ちょっとこのブリッジの位置を直してもらいたいんだけど」


 理香さんは時計を確認する。

 まだ僕たちがこの部屋にやってきて五分と経過していない。


「今すぐは無理ね。いま咲ちゃんが『テンペスト』中だから、その後、貴志とリハーサルしてこっちに来ることになっているのよ」


 真珠の目がキラッと輝いた。


「あいつは──ピアノをやめたと言っていたが、今も弾いているのか!?」


 ものすごい食いつき方に、理香さんが驚いているのが手に取るように分かった。


「ハル、加山ンのところに行こう! これを直してもらって、ついでに咲姉さ──じゃない、咲也? 綾サマ? の『テンペスト』も鑑賞しよう!」


 真珠は僕のバイオリンをケースにしまうと、急かすように僕の背中を追い立てる。

 理香さんは何故かとても焦っているように見えた。


「え? ちょっと真珠? 良ちゃんのところに行くの? だって、咲ちゃんがいるのよ? 今はちょっと、そっとしておいてあげて欲しいんだけど……」


 理香さんが全てを言い終わらないうちに、真珠は僕の手を引いて部屋から飛び出そうとしている。


 多分、真珠の耳に理香さんの声は届いていない。


 真珠は「てんぺすと~、テンペスト~。あーらーしー♪」と歌いながら足早に玄関扉を開ける。


 彼女のウキウキする気持ちがこちらにまで伝播してくる。


「もう! 真珠、わたし何かあっても知らないわよ! まったく! 話を聞きなさいよ~!」


 理香さんは、そう叫ぶと、ああどうしよう、という表情をしている。


 あの女装の男性と真珠が今会うのは良くないことなのだろうか?

 何があったのだろう? 


 不思議に思いながら、外へと連れ出された僕は理香さんを振り返る。


「晴夏! わたしも後から行くから。真珠の手綱をしっかり握っときなさいよ! 分かったわね!」


 理香さんがそう叫んでいる。


 僕は理香さんの焦りの理由が分からないながらも、とりあえず彼女に頷いてみせた。


 今の僕には、真珠の首に縄をつけて主導権を握るのは至難の業に違いない。


 それを分かっているから、理香さんは不安そうにしているのだ。


 真珠は、理香さんの宿泊棟から3軒隣──緑色の紐がドアに結ばれた加山さんの部屋のドアをノックした。


 ベートーヴェンの『テンペスト』が、僕たちの元に届いてきた。










晴夏ターン終了です。

次話より【本編・真珠】に戻ります。


晴夏ターンにお付き合いいただき

ありがとうございました!

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