第九十七話 逆転
(今の彼女に仕えながら、グラスは落ち着いているように見える。やはり私の弟ながら、曲がらずに順応することができたようだな)
すぐにでも彼の頑張りを褒めてやりたいという気分になる。荒みかけていた心も、弟のことを思うと驚くほどに静まっていく――私にとって、グラスは鎮静剤のようなものだ。
「……ヴァイセック殿、貴公の報告とはいささか実情が異なるようだが」
「っ……せ、戦果など……っ、国王陛下の命令に違反してどのような戦果が得られましょう。そう、そのような報告など無意味。アスティナ将軍、貴女がされるべき返答は、元帥からの指令に従うと、それのみではないのですか」
「一つ、貴君らの認識を訂正しておきたいのですが。ヴァイセック殿に、我がアイルローズ要塞の内情を知る権限はありません。彼が我が要塞を訪れてしたことは、国王陛下の勅令として、捕虜を解放せよと通達したのみです」
「ぐっ……!」
そのようなことだろうと予想してはいた。ヴァイセックは西方領で活動している間、自分の足では王都に戻らず、人を使って報告を行っていたと考えられる。
報告の内容は都合のいいものであり、それを鵜呑みにするほど元帥も参謀たちも無能ではないが、カサンドラ王妃の干渉が、ヴァイセックの報告に効力を持たせた。国王陛下の勅令に背き、アスティナ王女が乱心したということになっているのだ。
奸計を仕掛けるにも詰めが甘いと言わざるを得ない。ヴァイセックがなぜ、アスティナ殿下が抵抗しないと高をくくっていたのかは、ある程度推測できる。
(殿下はヴァイセックに言われるがままにしておいた。その姿を見て、ヴァイセックは油断をした……女と見れば甘く見るこの男のことだ、殿下の真意になど微塵も気づけず、自信を深めていたのだろう)
ロートガルト将軍の手前、三百の将兵たちは声こそ発しないが、明らかに動揺している。
アイルローズ要塞に入ることに正当性があり、三千の兵をそのまま自分たちの下につけられると思っていたのだから無理もない。
「捕虜を解放……殿下、それは……」
「ジ、ジルコニアの傷兵を捕らえることで、敵に侵攻の大義名分を与えることになる……へ、陛下は、そのことを憂いておられたからこそっ……」
「ヴァイセック殿、陛下の意志を代弁することが許されるとお思いか。それは貴公の私見ではないのか?」
「ロートガルト将軍、そのようなっ……私は陛下からの直接の命を代行しているのみです、それに疑心を抱くなど、それこそ許されることとお思いか!?」
あれほど余裕を持って殿下に無礼な視線を向けていたヴァイセックが、完全に取り乱している。
殿下はすでに微笑んではいない。側近の騎士と共に、氷のような視線をヴァイセックと、三百の兵たちに向けるのみだった。
「……ヴァイセック殿。このままでは埒があかぬ。貴公の持つ『勅令書』の内容を、改めさせてもらうことはできるだろうか」
ロートガルト将軍の判断は尤もだった。勅令書を確認する行為自体が陛下への不信を意味すると言われることも覚悟の上で、それでも確かめようというのだ。
「……ククッ。クハッ……クハハハハハッ……!!」
ここにいる誰もが向ける鋭い視線に耐えかねた――いや、違う。
ヴァイセックの瞳には獣のような光が宿っていた。その視線の先には、草原の丘に作られた牧場と、木と石で作られた小屋がある。
「領民を守るため……そうおっしゃいましたな、王女殿下」
「ヴァイセック殿、何を……」
「私は事を荒立てたくはないのです。殿下、この意味をお分かりになっていただけますね?」
――ヴァイセックがこちらにやってきたとき、その途上にあの小屋があった。
ヴァイセックが連れていた騎兵は『全員ではなかった』。数人があの小屋に残り、住民を人質に取っていたのだ。
「このまま我々を要塞まで案内していただければ、それでいいのです。私はこれ以上余計な口を挟むことはありません」
何が起きているのか、殿下も既にお気づきになられているはずだった。
その表情は動かない。ヴァイセックは威勢を取り戻し、余計な口を挟まないと言ったその口でさらに事実上の恫喝を始める。
「どのみち、此度の命令に反すれば貴女は軍事裁判にかけられます。そうなるよりも、西方領の統治権を素直に移譲し、母君と穏やかに暮らされてはいかがです。アムネリア妃殿下もそう望んでおられますよ」
力を持たぬ民を見境なく襲う悪鬼でも、これほど見るに堪えぬものではないと思った。
殿下だけではない。ヴァイセックはアムネリア妃殿下までも侮辱したのだ――ロートガルト将軍が手綱を持つ手に力が込められる。彼もまた、ヴァイセックの言葉に怒りを覚えている。
「歴戦の勇将であるロートガルト将軍が着任すれば、アイルローズ要塞の守りはより盤石となるでしょう。攻め上手のアスティナ殿下も、一度は守りを学んだ方が良い。その適性を疑問視して、国王陛下も此度の勅を――」
勝利を確信したヴァイセックは、いたずらに熱弁を振るいすぎた。
ヴァイセックに剣を向けたのは、ロートガルト将軍だった。猛禽のような瞳が、静かに燃える怒りを宿している。
「な、何を……っ、私は将軍殿が、命令を遂行できるようにと……っ」
「貴殿は王国騎士の本分を軽視しすぎている。最前線で剣を振るってきた騎士に向ける言葉としては、あまりにも敬意に欠けている」
謀略を巡らすことしか頭にない男に、騎士道など理解できるわけもない。そんな輩が騎士団に入り込んでいること、この場にいること自体が、騎士団の腐敗を示している。
ロートガルト将軍が剣を納めると、蒼白になっていたヴァイセックの顔に幾らか血の気が戻る。
「い、今のことは私から詫びましょう……しかし、命令は遂行していただく。私はそれを見届けるためにここにいるのですからな」
ヴァイセックの状況を目にしてか、牧場の住民を捕らえた騎兵が、人質を前に出す。両親と娘――怪我などをしていないことが幸いだったが、王国軍の軍人が自分たちを利用していることには、恐怖と憤りを感じているに違いなかった。
すでに盤面を引っくり返す材料は揃っている。しかし私が力で彼らを止めたところで、グラスはそれを喜びはしない――王都にいる家族たちに危害が及ぶこと、魔法学院に何らかの罰則が加わることは、絶対に避けなくてはならないことだからだ。
グラスの父親――義父は、私が軍属となったときから覚悟を決めている。母は貴族の政争に利用されぬように努めていて、カサンドラ王妃に対して適度な距離を取りながら、アムネリア妃殿下の冷遇を案じ、水面下で援助をしている。
私がどちらに味方をしたいのかなど考えるまでもなかった。王国への忠誠は、自分の子を国王とするために周囲を蹴落とそうとする第二王妃に向けるべきものではない。
「……アスティナ殿下。我らも状況を把握するべく、アイルローズ要塞に一度入らせていただきたい。統治の移譲については、即日とは申しません」
元帥の決定が覆らなければ、それはやはりアスティナ殿下の失脚を意味する。ロートガルト将軍にとっても、これは苦渋の決断ではある。
ここが限度かと、私は見切りをつけようとする。軍人として忠実に任務を遂行してきたロートガルト将軍には、ここで退くという決断はありえない。たとえ、アスティナ殿下の発言がヴァイセックよりも正しいと分かっていても。
我が契約精霊、テンペストを召喚する。この天候なら雷鳴と共に現れ、三百の騎兵を戦かせることができるだろう。
(……主様。その判断は早計ではありませぬか)
召喚を行う意志を諌めるように、威厳のある女性の声が聞こえてくる。テンペストは私と年齢の近い女性の姿で、人間界において実体化する――精霊界で霊体として存在する彼女の声を、私はいつでも聞くことができる。
(私の力を、仮にも味方の兵たちに向けるのは好ましくありますまい。それでは主様のお心が晴れませぬ)
仮にも――そう、仮に過ぎないのだ。彼らの心にあるのは、殿下が築きあげた統制された軍をそのまま手に入れるという権力欲だけ。
そのような輩にかける情けも何もない。ロートガルト将軍には申し訳ないが、殿下の抵抗を封じて要塞に案内させようと言うなら、止める以外にはない。
(この領域は、強い力を持つ精霊の膝下。私に匹敵するか、あるいは……)
テンペストよりも強い力を持つ精霊――それはもはや神霊に類する。自分の力を驕っているというつもりはなく、嵐そのものを司る精霊以上のものに対して、人は神と表現する以外の言葉を持たない。
レスリーが手紙を送ってきた後に、何かが起きた。グラスがアイルローズ要塞で受け入れられるという以上のことを、あの弟はやってのけたのだ。
「私は、同じ言葉を繰り返すことは好みません。私はアイルローズ要塞を、領民を守るために力が不足していないと証明することができます。そして……ヴァイセック殿に大義などないということを、今ここで示すことも」
「なっ……!?」
私はそのとき、アスティナ殿下を包み込むような気配を感じた。
――魔法学院の中庭で、枯れかけた古い大樹に語りかけていたグラスの姿。彼を包み込んでいた気配にも似て、それよりも暖かい。
「……グラス……この西方領に来て、一体どこまで……」
感情が溢れて、私は意識せずに弟の名を呼んでいた。
少し離れた場所にいた、アスティナ殿下の配下の騎士たち。その後ろに控えていたグラスとレスリーの姿が、いつの間にか消えている。
「……い、一体、何を……っ、この……っ!」
ヴァイセックは激昂する――殿下が一瞥した先、牧場の民を人質に取っていた騎士たちの姿が消えている。二種類の精霊魔法を使った気配を、私はこの距離でも感じ取ることができた――テンペストもそれに気づき、私を諌めたのだ。
グラスとレスリーが、殿下を助けるために動いた。予め殿下から指示されていたのか、自分たちで判断したのかは分からない。
しかし、これだけは事実として言うことができる。
魔法学院で疎外され、押さえつけられていた二人の魔法士は、主君である王女の窮地を救うためにその力を遺憾なく発揮し、それぞれの才を示していた。




