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第六十八話 夜間渡河

 運河は西から東に向かって流れており、徐々に北に向かっていく。王国北部の上辺を通って、北東の果てに広がる海へと向かう。


 前回敵が上陸してきたのは、要塞西側と東側。運河という大量の水を利用して、何らかの方法で幻影を作り出し、ジルコニアは軍船を隠蔽して河を渡ってきた。


 アルラウネの場合、花粉を風に乗せて飛ばしたりすることで影響範囲を広げられる。水精霊も、流れに沿って範囲を広げる方が自然であり、流れに逆らうには余分な魔力が必要となる。


 西と東から運河を渡る軍船を隠蔽するためには、広範囲に幻影を生じさせる必要がある。ディーテさんの話によると、運河に霧がかかる現象が何度か確認されており、今までは気候の変化によるものと考えてきたそうだった。


「魔法士は運河の上流側にいる可能性が高いと、そういうことなのですね」


 装備を整え、一階の中庭に集まった俺たちは、西と東のどちらから運河を渡るかについて意見を交わす。


 殿下は目を閉じ、胸に手を当てて祈る――すると、中庭に生えている樹木の全体が輝き、光の粒が殿下の身体に吸い込まれていく。


(神樹が眷属であるあの樹を介して、殿下の呼びかけに応えている。王家の巫女は遠い昔、こんなふうに『神託』を受けていたのか……)


 やがて殿下は目を開け、俺たちを見た。神託は、どこから渡河すべきかを判断する助けとなったようだ。


「運河沿いの植物が、魔法の影響を感知していました。西から東へ河の流れに沿って霧が流れ、その霧がこちらからの視界を遮っていたようです」

「ということは……敵の拠点は西にあって、東から攻めてきた軍も、西から河を下ってきてたってこと? 撤退するときは、東側から退いていったけど……」

「西と東の軍船を両方隠蔽するには、殿下の仰るように、魔法士が上流に位置する必要がある。つまり、西側の拠点に戻っていると考えていいだろう」


 水の流れ――それを利用することができれば水の魔法士は大きな力を発揮するが、逆に言えば、流れに縛られてもいるということか。


「魔法士が西の拠点にいる可能性は、かなり高いということですか。はずれであっても、軍船が停泊している拠点は落とせるといいですわね」


 軍船を一つでも無力化すれば、ジルコニアに対する大きな打撃となる。首尾よく奪えれば、こちらが軍船を利用することもできるようになるからだ。


 方針が定まったところで、装備の最終点検をする。殿下たちは全員、音が鳴る金属の鎧ではなく、夜に潜みやすい黒革の武具を身に着けている。いつも清廉な印象を受ける銀の武具を身に着けているので、最初はその落差に驚かされたものだった。


 レスリーは普段『レンドル』として正体を隠しているからか、隠密のような服装がよく似合っていた。なぜか装備を身に着ける際も手慣れていて、俺に装備の仕方を教えてくれた――なぜそんな知識があるのか気になるが、今は詳しいことを聞いている時間がない。


「渡河する際から、私が魔法を使って全員の気配を隠蔽します。ですが、舟を使って渡るような方法だと、時間がかかりすぎて気付かれる可能性があります」

「できるだけ早く渡る必要があると、そういうことですね」

「装備を外して泳ぐとか……ううん、それはそれで危険だし。小舟だと、河の流れがあって、最低でも半刻は渡るのにかかりそうだよね……」

「それについては、アルラウネが良い知恵を貸してくれるそうです。渡河を始める地点の近くまで移動してみましょう」


 アルラウネの言う通りなら、舟を用意する必要はない。俺たちは通用門を通って要塞の西側に出た――前に射手隊が倒した兵たちの墓標として残されていた武具も、そのままでは朽ちて金属質が土地に影響を与えるため、今は全て回収されている。


 葦原を抜けて、運河の岸に辿り着く。夜のこの時刻では、対岸までが見通せないほどに遠い――水の流れも、このあたりは平地で緩やかになっているが、小さな船で渡ろうとすれば、かなり下流まで流されることになるだろう。


「この広大な運河全体に干渉する、水精霊の力……なるほど、途方もないものだ。しかし、やられるがままというわけにもいくまい」


 ラクエルさんは遥か向こう岸、ジルコニア側を見据える。ディーテさんはいつも使っている複合弓より一回り小さい短弓を構え、周囲に目を配っていた。


「ディーテさん、その背中に背負っているものは……? 硝石の匂いが少ししますが」

「敵軍の大砲を接収することができたので、火薬が手に入りましたの。ジルコニア側は金属加工の技術は遅れていますが、火薬兵器については私たちより一日の長があるようです。私も部下に命じてこの『火槍』というものを開発していたのですが、それに敵の火薬を利用させてもらいました。やはり拠点を叩くには、剣や槍、弓だけでは心もとないですから」

「火矢の発展系のようなものか。確かに、必要になる場面はあるかもしれぬな」


 ラクエルさん、プレシャさんは武術に特化しているが、ディーテさんは兵器開発にも通じているようだ。


 そして火薬武器を持っているのなら、やはり水濡れは回避したい。天候はよく晴れているが、ノインが動いて霧の魔法を使ったら、それで駄目になってしまう可能性もある。


 ――そのとき、懐に入れて持ち歩いていた球根が輝き始める。地面に置いて詠唱を行うと、アルラウネが子供の姿で召喚された。


「お待たせしました、協力してくれるそうなのです。『あの子』は具象化するのにたくさん魔力が必要なので、王女様に力を貸してほしいのです」

「『あの子』という方が、河を渡るために力を貸してくれると……それならば、いくらでも力を使ってください。グラス、良いですか?」

「はい、どうか殿下のお力をお借しください。ルーネ、その精霊を呼ぶための詠唱は……そうか、これでいいんだな」


 ルーネが実体化を解いて、霊体となって俺の中に宿る――その瞬間に、俺はルーネが精霊界で見てきたものと、新たな詠唱句を知ることができていた。


 その植物は、この世界の植物がなしえない生態を持っている――脳裏によぎった光景を見て、俺は新しい植物を知った時にはいつものことだが、ただ感嘆するほかない。


「では、始めます……レスリー、召喚が終わったら気配を絶つ魔法を頼む」


 レスリーはこくりと頷く。俺は全員が注目する中、滔々と流れる大河に手をかざし、詠唱を始めた。


「『深淵より湧きいずる霊泉に浮かび、舞い上がる睡蓮よ。一度現世に姿を現せ』」


 殿下から俺の中に魔力が流れ込む。召喚に使う魔力が補われるどころか、俺という器から溢れそうになる――こんな途方もない力を持て余したままでいたのかと、彼女の力を借りるたびに思う。


 暗い水面の上に、大きな円形の淡い光が生じる。それは一つではなく、無数に連なって、運河の向こう岸まで伸びていく。


「これは……巨大な、蓮……?」

「こ、こんな植物が本当にあるの……? 空中に、浮かんでる……!」


 『浮遊鬼蓮フユウオニバス』――精霊界にある『エルミルの泉』に存在する水生植物だが、大人が上に乗れるほど大きな円形の葉を持ち、空中に浮き上がって日当たりのいい場所に自ら移動するという生態を持つ。


 その浮遊鬼蓮を無数に召喚することで足場とする。これなら、運河の流れに影響を受けず、最短距離で渡ることができる。


 迷っている時間はないとばかりに、まず先陣を切ったのはプレシャさんだった。跳躍して浮遊する蓮の葉に乗り、さらに次の足場へと飛ぶ――大人一人を簡単に受け止め、弾力を持って跳ね返すさまを見て、殿下が続く。


 ラクエルさん、ディーテさん、レスリー――そして最後は俺。眼下に河が流れていて、吸い込まれそうに黒い水面を見るとゾクリとさせられるが、意識を前に向けて渡りきることに集中する――そして。


 舟では半刻もかかるだろう渡河を、俺たちは幾らもかからずに完遂していた。召喚を解かれた蓮は、夜の闇に溶けるようにして、精霊界に送還される。


 それで止まるわけではなく、俺たちは葦原を身を屈めて移動していく。方角は西――敵の斥候が巡回していないか注意を払いながら、俺たちは視認されにくい手近な林に向かって移動を続ける。


 時間にして、一刻――遠くで聞こえる狼の遠吠えを聞きながら、俺とレスリーは凄まじい速さで進んでいく殿下たちに、少し遅れて追従する。ディーテさんは俺たちの護衛に当たってくれて、置き去りにせずに随行してくれた。


「よくついてきていますわ、二人とも。ですが、まだしばらくは休めませんわよ」


 走りながら話せるディーテさんに驚嘆せざるを得ない。彼女もまた軍人であり、日頃から身体を鍛えていることの現れだ――俺も体力づくりをしておくべきだったと思うが、泣き言は言っていられない。


 やがて、先行していたプレシャさんが速度を緩める。彼女の指し示す先には、夜の闇に浮かび上がるいくつかの光があった。


「殿下、見てください、明かりが見えます」

「……櫓と、見張りのジルコニア兵が確認できます。あれが敵の拠点……軍船を造っていたのも、あの場所のようですね」


 運河の支流が、高い柵に囲まれた敵の砦に向かって流れている。近辺の森林が伐採され、大量の木材が採取された形跡があった。


 あの場所にどれだけの敵兵がいるのか。どのように占拠するのか――そして、ノインと遭遇することになるのか。どうなるにせよ、俺はレスリーとともに、魔法士として求められる役割を果たすのみだ。


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