第三十話 神域
この場所で何が起きたのか――土が乾燥し、風化して流れたあとに転々と残されている石床、そしてその先にある、蔦の絡みついた朽ちた看板。それを近づいて確認したとき、推測は確信に変わった。
「……この場所は、かつて王国の管理下にあった。全ては読み取れませんが、王国の紋章と、当時の王の名前が書いてあります」
「この名前は、十代も前……クルディオ王の治世としたら、もう百年近くも昔になりますわ」
この庭園を含む地域は、王国の支配が完全でないが、百年前からこの国の領土であったはずだ。
豪族が影響力を強めて、王国がこの庭園を管理できなくなる自体に陥ったのか。それとも、王国が自ら管理を放棄したのか。現状では、どちらという確証もない。
「王国がここの管理をやめちゃったのなら、付近の人たちにどうして頼まなかったの?」
「それは……状況から推測するしかありませんが。何かの理由で、この森は人を寄せ付けなくなったんだと思います。精霊の力が強い場所は、往々にして人を拒むことがある。精霊の影響を察知できる魔法士でなければ、『なんとなく』近づきたくないと思って、それきりになってしまうんです」
精霊の影響力で人の立ち入りを禁じるというのは、応用が効く魔法ではある。しかし、精霊が怒っていたり、人間に悪感情を持って人を拒んでいるのなら、決して放置しておいてはならない。
自然界の精霊は、人間に様々な恩恵をもたらすが、時には苦しめることもある。元素精霊は影響力が特に強いと言われていて、精霊の怒りが天災として現れることもある――精霊界の精霊は、召喚が解ければ精霊界に帰るので、こちらの世界に与える影響は少ないのだが。
(……この庭園に現れている現象も、精霊に起きた異変によるものだ。庭園の植物全体に、影響を及ぼしている何かがいる。そんなことができるとしたら、精霊ではなくて、もう一つ上の存在……でも、もしそれがこの先にいるとして、近づいて無事でいられるか……)
同行している仲間もいるこの状況で、無謀な選択はできない――しかし先ほどもプレシャさんたちが自分で言っていた通りに、彼女たちに退くという選択はない。
「グラス先生、あたしたちに遠慮しなくてもいいよ。この先に何があっても、あたしは進むことを後悔しない」
「王家が手放し、放置された庭園……こんな謎に触れることは、要塞にいては経験できないですものね。遊んでいるつもりはないですが、正直を言うと胸は踊っていますわ」
まばらな石床が続く、庭園の奥へと向かう道。そこでは新たな植物の魔物が道を塞ぐ――それを見て、全身から闘志を漲らせて立つプレシャさんと、弓を構えるディーテさん。彼女たちが共に来てくれたことを、改めて頼もしいと感じていた。
◆◇◆
「――はぁぁっ!」
「そこっ……!」
プレシャさんの槍が唸り、ディーテさんの矢が荒れ狂う植物を射抜く。ゴブリンなどより遥かに強力な魔物たちでも、二人は弱点さえ分かればものともしなかった。
奥に近づくほど、魔物はどうしても近づかせたくないのか、俺たちへの攻撃を強める。しかしイラクサだけは、俺の言葉を聞き入れて一度も攻撃してこなかった。
同種の植物は、仲間として意識を共有している。襲ってくる植物は、ただ『神域を放棄した人間に罰を与える』という言葉を繰り返している。
しかし、俺たちを止められないことに気づくと、次第に声が弱まってくる。そして俺たちは、ますます濃くなる瘴気の中で、長い下り坂に差しかかった。
――そして、ここまで近づいて初めて、『それ』の存在を視認することができた。
長い坂を下った先にあるので、庭園の外からは見えなかったが、そこには巨大な樹木があった。いや、樹木とわかるのは幹と枝のような部分があるからで、葉は一枚もなく、表面は朽ちて灰色になってしまっている。
あの大樹を中心として、風が流れてきている――瘴気をこちらに叩きつけているのだ。『人間に罰を』という声が頭に鳴り響いて、大樹が鳴動し、灰色の砂が巻き上がる。
「っ……せ、先生っ……これじゃ、もう一歩も……」
「――グラス先生っ、いけませんっ! あなた一人では……っ!」
プレシャさんもディーテさんも、もう一歩も進めなくなっている。止めてくれる二人の声は聞こえていたが、それでも進まずにはいられなかった。
この先にいる存在は、弱りきって助けを求めている――そんな生易しい想像の通りではなかった。
絶望し、嘆き、その怒りをただ人間全てに向けるしかなくなっている。そうするしか無くなった理由は、一つしかなかった。
「ここを捨てた人間を憎む気持ちは分かる……それでも、無理を承知で頼みたい! もう一度だけ機会を与えてくれ! 俺たちは、二度と裏切らない! ここを捨てて、忘れたりはしない……!」
――裏切りではない。
――私はいつまでも、人間が信仰を捧げてくれるものだと思いこんでいた。
――私の驕りが人の心を遠ざけた。信仰を得られぬ神は朽ち、忘れられるのみ。
「あなたの眷属は、それで納得しちゃいない……だから俺たちに怒りを向けた。あなたも無念だと思っているはずだ! このまま周りの土地が枯れ落ちたら、本当に忘れられる……今なら、まだ止められる! 俺たちは、あなたを助けられる!」
その場しのぎの嘘をついているつもりはなかった。あの朽ちかけた巨木が『神』だと名乗るのなら、それはもはや精霊ではなく、その上位存在――神霊と言っていいだろう。
信仰を失ったことで瘴気を放ち、土地を枯れさせているのなら、俺がもう一度信仰を捧げる。一人で足りないのなら、多くの人が信じてくれるように働きかける。
それでも拒絶は強まり、瘴気は際限なく濃さを増していく。吹きつける灰色の土に石が混じり、頬をかすめる――痛みが走り、頬に血が伝っているとわかる。
――もはや、遅すぎる。私でも、自分の身体が朽ちることを止めることはできない。この地を支える私の根が枯れれば、土は腐り、眷属は魔に成り果てる。お前たちに切り捨てられた者たちもまた、元は罪のない草花だった。
――私は彼らに殉じて、滅び去るのみ。人間よ、この地を再び放棄せよ――。
頭に鳴り響く声。諦めきって、何の希望も持たない、それが神の望むことだとしたら、本来人間にできることなど残されていないのかもしれない。
それでも俺は諦めきれない。あと少しで、あの大樹のもとに辿り着くというのに――吹きつける瘴気を防ぐうちに、魔力結晶に蓄えられた魔力は、すでに失われかけていた。




